玉勝間 / 七の巻 祈年祭の猪の事
同記に、仁平元年二月四日、右少辨資長申、祈年祭猪、近江國未進者、云云、九日、庚戌、近江目代俊弘申云、郡司申云、祭前十餘日、狩、猪不得之、連日狩獵、于今無得、先例如此之時、用代物、先即見北山抄四、承平四年六月月次祭、馬代進調布、(八端)任彼例、可以調布八端、爲猪代之由仰了、以同趣仰史と見ゆ。祈年祭ノ猪とは、御年神に、白猪を進らるる事なり。古書共に見えたり。
新字:同記に、仁平元年二月四日、右少弁資長申、祈年祭猪、近江国未進者、云云、九日、庚戌、近江目代俊弘申云、郡司申云、祭前十余日、狩、猪不得之、連日狩猟、于今無得、先例如此之時、用代物、先即見北山抄四、承平四年六月月次祭、馬代進調布、(八端)任彼例、可以調布八端、為猪代之由仰了、以同趣仰史と見ゆ。祈年祭ノ猪とは、御年神に、白猪を進らるる事なり。古書共に見えたり。
書き下し
同記に、仁平元年二月四日、右少弁資長申す、祈年祭の猪、近江国未進てえり、云々、九日、庚戌、近江の目代俊弘申して云う、郡司申して云う、祭の前十余日、狩れども、猪之を得ず、連日狩猟すれども、今に得ること無し、先例かくのごときの時、代物を用う、先ず即ち北山抄の四を見るに、承平四年六月の月次祭に、馬の代に調布を進る、(八端)彼の例に任せて、調布八端を以て、猪の代と為すべきの由仰せ了んぬ、同じ趣を以て史に仰すと見ゆ。祈年祭の猪とは、御年神に、白猪を進らるる事なり。古書どもに見えたり。
現代語訳
同じ記(台記)に次のように見える。「仁平元年二月四日、右少弁の資長が申すには、祈年祭の猪を近江国がまだ納めていないとのこと、云々。九日、庚戌、近江の目代の俊弘が申すには、郡司の申すところでは、祭の十数日前から狩りをしたが猪が獲れず、連日狩りをしても今になっても獲れない、とのことである。先例ではこのような時には代わりの物を用いる。まず北山抄の巻四を見ると、承平四年六月の月次祭に、馬の代わりに調布(八端)を納めている。その例に従って、調布八端を猪の代わりとするよう命じた。同じ趣旨を史(書記官)にも命じた」。祈年祭の猪とは、御年神(みとしのかみ)に白い猪を献上することである。古書に見えている。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』一の巻 加賀国白山社の祭同記に云う、同年四月六日戊午云々、今日加賀国白山社の御祭なり、仍て予并びに国司、今朝早旦行水して解除を修す、神事の為、月水の者は之を出だす、重軽服の輩は、門内に入れず、魚喰に於いては憚らず、去年十一月の如し、但し鳥兎の類に至りては、深く以て之を禁断す、社例と云う、とあり。中昔までも、然るべき神社の祭には、その国司もかくの如くなりき。しかるに今の世は、乱世のままにて、国々にても、神事いとおろそかなり。
-
『玉勝間』一の巻 平戸記は、多く以て実無きなり、仍て文治の意見に、光長卿議定して言う、実無き物等、其の代物を定めらるべし、新式を立てらるべきかと云う、此の議然るべきの由沙汰有り、記録所に於いて之を定めらる、然れども終に施行無し、建暦の末・建保の初め、また此の沙汰に及ぶ、已に其の奉行等の人数を定めらると雖も、終にまた施行無し、近くは仁治に此の沙汰あり、子細前に同じと云々、封有るの神事、今に於いては封戸実無しと云々、またいわく、同年三月八日、小除目を行わる、中務丞〓原行真云々、中務丞の名字(行真)は、後白河院の御法名なり、職事に云う、年如何と云う、上卿・執筆等存知せざるか、また執柄御覚悟無きか、不審不審、後に聞く、数日を経て此の沙汰出で来たり、追って改めらると云う。
-
『玉勝間』十二の巻 いにしへ神事を重くせられし事書紀天智天皇の御巻に、九年三月、山の御井の傍らに於て、諸神の座を敷きて、幣帛を班つ、中臣金の連祝詞を宣る、と見えたり。そのかみ中臣の氏人は、ここら有りつらむに、金の連にしも、祝詞を宣らしめ給えるをもて、古え神事を、いみしく重くせられしほどを知るべし。この連公この時位は、大錦上にて、正四位上にあたれども、そのかみ第二の臣にて、明年正月に、右大臣に任ぜられて、いと重き人にぞ有りける。そもそもこの天皇は、殊にから御心におわしまして、万づにもろこしぶりをならい移されたる御世なりしかども、なお神事のやんごとなかりし事は、かくぞ有りし。
-
『玉勝間』十四の巻 牛を殺して漢神を祭りし事続紀に、延暦十年九月、伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等の国の百姓の、牛を殺して用いて漢神を祭るを断つと見えたる、漢神は、いかなる神にか有りけむ。書紀皇極天皇の元年にも、祝部どもの教えしによりて、牛馬を殺して、社々の神を祭りて、雨を祈りしこと見えたり。牛馬を殺して、神を祭れるは、もろこしの俗にならえると、谷川の士清も云えりき。
-
『玉勝間』八の巻 祭に臨みて神主を定むる事左経記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴る、祭事を行わんが為に、梅宮に参る云云、但し氏人等遅参す云云、仍て大膳少進従五位下上野朝臣広遠を以て、神主と為す云云(先例は氏人を以て神主と為す、而るに遅参す、仍て定め有りて、広遠を以て神主と為す)と有るを見れば、古は、祭に臨みて、神主と云うものを、定められたる事も有しなり。
-
『玉勝間』二の巻 御即位後奉幣諸神祝詞同じ記のつづきにまた云わく、天慶九年四月十五日の外記日記に云う、天皇即位す、仍りて五畿内七道諸国の天神地祇に幣帛を奉らんが為に、五畿内は諸司の物を以て宛て用い、諸国は当の正税を以て之に宛て用う、使は道毎に神祇の中臣斎部等を差す、(各駅鈴一口を給う、但し畿内の使には給わず、)また五畿七道諸国の諸神に奉幣する日、廃務の有無の事、天禄元年三月廿日辛酉、終日雨降る、上卿参らず、仍りて政無きなり、今日天皇御即位の後、先例に依りて五畿七道諸国の諸名神に奉幣する使を発遣せらるるなり、件の使等は、神祇官の先日差し申すに依りて、大中臣斎部等を以て其の官と為し、諸国に符し給う、但し神祇官より件の使等を立つ。また、畿内七道の使の官符八枚、七道の幣料、正税を以て之に宛つべき官符五枚等なり、合わせて十五枚、と見えたり。この記は、後の小野の宮の右大臣実資公の日記なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る