玉勝間 / 七の巻 陸奥国五箇荘年貢の事
同記云、仁平三年七月十四日、去去年、厩舍人長勝延貞爲使、下向奥州、先年可增奧州高鞍庄年貢之由、禪閣被仰基衡、(金五十兩、布千段、馬三疋、)基衡不肯增之、久安四年、禪閣以五个庄、讓余、同五年、以雜色源國元爲使、仰基衡曰、可高鞍、金五十兩、布千段、馬三疋、(本數、金十兩、布二百段細布十段、馬二疋、)大曾禰、布七百段、馬二疋、(本數、布二百段、馬二疋、)本良、金五十兩、布二百段、馬四疋、(本數、金十兩、馬二疋、預所分、金五兩、馬一疋、)屋代、布二百段、漆二斗、馬三疋、(本數、布百段、漆一斗、馬二疋、)遊佐、金十兩、鷲羽十尻、馬二疋、(本數、金五兩、鷲羽三尻、馬一疋、)基衡不聽、國元其性弱、不能責之、空以上洛、重遣延貞責之、去年基衡申曰、不得增所仰之數、可增進、高鞍、金十兩、細布十段、布三百段、御馬三疋、大曾禰、布二百段、水豹皮五板、御馬二疋、遊佐、金十兩、鷲羽五尻、御馬一疋、屋代、布百五十段、漆一斗五升、御馬三疋、本良、金二十兩、布五十段、御馬三疋者、仰曰、三个所(本良遊佐屋代)所申非無其理、依請、至于高鞍大曾禰兩庄者、田多地廣、所增不幾、猶减本數、可進、高鞍、馬三疋、金二十五兩、布五百段、大曾禰、馬二疋、布三百段也、今日任此數、延貞持來三个年年貢、(久安六仁平元年二)年來貢本數、然而返却不受、今年相合三个年數受之、增年貢事、成隆朝臣(高鞍預)俊通(本良預)所勸進也。
新字:同記云、仁平三年七月十四日、去去年、厩舎人長勝延貞為使、下向奥州、先年可增奥州高鞍庄年貢之由、禅閣被仰基衡、(金五十両、布千段、馬三疋、)基衡不肯增之、久安四年、禅閣以五个庄、譲余、同五年、以雑色源国元為使、仰基衡曰、可高鞍、金五十両、布千段、馬三疋、(本数、金十両、布二百段細布十段、馬二疋、)大曽祢、布七百段、馬二疋、(本数、布二百段、馬二疋、)本良、金五十両、布二百段、馬四疋、(本数、金十両、馬二疋、預所分、金五両、馬一疋、)屋代、布二百段、漆二斗、馬三疋、(本数、布百段、漆一斗、馬二疋、)遊佐、金十両、鷲羽十尻、馬二疋、(本数、金五両、鷲羽三尻、馬一疋、)基衡不聴、国元其性弱、不能責之、空以上洛、重遣延貞責之、去年基衡申曰、不得增所仰之数、可增進、高鞍、金十両、細布十段、布三百段、御馬三疋、大曽祢、布二百段、水豹皮五板、御馬二疋、遊佐、金十両、鷲羽五尻、御馬一疋、屋代、布百五十段、漆一斗五升、御馬三疋、本良、金二十両、布五十段、御馬三疋者、仰曰、三个所(本良遊佐屋代)所申非無其理、依請、至于高鞍大曽祢両庄者、田多地広、所增不幾、猶减本数、可進、高鞍、馬三疋、金二十五両、布五百段、大曽祢、馬二疋、布三百段也、今日任此数、延貞持来三个年年貢、(久安六仁平元年二)年来貢本数、然而返却不受、今年相合三个年数受之、增年貢事、成隆朝臣(高鞍預)俊通(本良預)所勧進也。
書き下し
同記に云う、仁平三年七月十四日、去々年、厩舎人長勝延貞を使いと為し、奥州に下向す、先年奥州高鞍の庄の年貢を増すべきの由、禅閣基衡に仰せらる、(金五十両、布千段、馬三疋、)基衡肯えて之を増さず、久安四年、禅閣五箇の庄を以て、余に譲る、同五年、雑色源国元を以て使いと為し、基衡に仰せて曰く、高鞍、金五十両、布千段、馬三疋たるべし、(本数、金十両、布二百段・細布十段、馬二疋、)大曾禰、布七百段、馬二疋、(本数、布二百段、馬二疋、)本良、金五十両、布二百段、馬四疋、(本数、金十両、馬二疋、預所の分、金五両、馬一疋、)屋代、布二百段、漆二斗、馬三疋、(本数、布百段、漆一斗、馬二疋、)遊佐、金十両、鷲羽十尻、馬二疋、(本数、金五両、鷲羽三尻、馬一疋、)基衡聴かず、国元その性弱く、之を責むること能わず、空しく以て上洛す、重ねて延貞を遣わして之を責む、去年基衡申して曰く、仰せらるる所の数を増すことを得ず、増し進ずべきは、高鞍、金十両、細布十段、布三百段、御馬三疋、大曾禰、布二百段、水豹の皮五枚、御馬二疋、遊佐、金十両、鷲羽五尻、御馬一疋、屋代、布百五十段、漆一斗五升、御馬三疋、本良、金二十両、布五十段、御馬三疋てえり、仰せて曰く、三箇所(本良・遊佐・屋代)申す所その理無きに非ず、請いに依る、高鞍・大曾禰両庄に至りては、田多く地広し、増す所幾ばくならず、なお本数を減じて、進ずべし、高鞍、馬三疋、金二十五両、布五百段、大曾禰、馬二疋、布三百段なり、今日この数に任せて、延貞三箇年の年貢を持ち来たる、(久安六・仁平元年二)年来本数を貢す、然れども返却して受けず、今年三箇年の数を相合わせて之を受く、年貢を増す事は、成隆朝臣(高鞍の預)・俊通(本良の預)の勧進する所なり。
現代語訳
同じ記(台記)に次のようにある。仁平三年七月十四日。一昨年、厩舎人の長である勝延貞を使いとして奥州に下向させた。先年、奥州の高鞍荘の年貢を増やすようにと、禅閣(父の藤原忠実)が藤原基衡に命じられた(金五十両、布千段、馬三頭)が、基衡はあえてこれを増やさなかった。久安四年、禅閣は五つの荘園を私に譲られた。同五年、雑色の源国元を使いとして、基衡に命じて言った。「高鞍荘は金五十両、布千段、馬三頭とせよ(これまでの額は金十両、布二百段と細布十段、馬二頭)。大曾禰荘は布七百段、馬二頭(これまでは布二百段、馬二頭)。本良荘は金五十両、布二百段、馬四頭(これまでは金十両、馬二頭、預所の分として金五両、馬一頭)。屋代荘は布二百段、漆二斗、馬三頭(これまでは布百段、漆一斗、馬二頭)。遊佐荘は金十両、鷲の羽十尻、馬二頭(これまでは金五両、鷲の羽三尻、馬一頭)」。基衡は聞き入れず、国元は気性が弱くて強く責めることができず、むなしく京に帰ってきた。重ねて延貞を遣わしてこれを責めた。昨年、基衡が申すには、「仰せの数までは増やせません。増やして納められるのは、高鞍は金十両、細布十段、布三百段、馬三頭、大曾禰は布二百段、アザラシの皮五枚、馬二頭、遊佐は金十両、鷲の羽五尻、馬一頭、屋代は布百五十段、漆一斗五升、馬三頭、本良は金二十両、布五十段、馬三頭です」とのことであった。そこで命じて言った。「三か所(本良・遊佐・屋代)については、申すところにも理がないわけではないので、願いどおりとする。高鞍・大曾禰の二荘については、田が多く土地も広いのに、増やす分がわずかである。なお求めた数からは減らしてやるから、高鞍は馬三頭、金二十五両、布五百段、大曾禰は馬二頭、布三百段を納めよ」。今日、この数のとおりに、延貞が三年分の年貢を持って来た(久安六年と仁平元年・二年の分)。この数年は元の額を納めてきていたが、私は返して受け取らなかった。今年、三年分を合わせてこれを受け取った。年貢を増やすことは、成隆朝臣(高鞍荘の預)と俊通(本良荘の預)が勧めたことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 延久の御世に始めて記録所をおかれし事延久の記録所とて、はじめておかれたりけるは、諸国七道の所領の宣旨官符をなして、公田をかすむる事、一天四海の巨害なりと、きこしめしつめて有りけるが、即ち宇治殿の時、一の所の御領御領とのみ云いて、庄園諸国に満ちて、〓のつとめたえ難しなど云うを、きこしめしもちたりけるにこそ、さて宣旨を下されて、諸人領知の庄園の文書を召されけるに、宇治殿へ仰せられたりける御返事に云云。別に宣旨を下されて、この記録所へ文書ども召すことは、所大相国の領をのぞくと云う宣下ありて、中中つやつやと御さた無かりけり。この御さたをば、いみしき事かなとぞ、世の中に申しける。
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『玉勝間』六の巻 南殿の御階の桜橘庄無くは、いかにしてかは、おおやけわたくし候うべき。近代の上達部、おおく国を賜わり候うは、封戸の無きかする事なめりと思い候うに、召さるるこそ、ちから及ばぬことなれ云云。また云わく、近代となりて、こわき物のうえに、なおこわき物を着かためて、こしあて、こうぶりとどめ、えぼしとどめなど申して、ちからも及ばず、したてあいて候うなるに、しおしおくたくたとして、あさましげなる雑色一二人ばかりぐして云云。
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『玉勝間』二の巻 久安五年忠通公任太政大臣宣命兵範記にいわく、久安五年十月廿五日云云、今日太政大臣に任ず云云、節会例の如し、右大臣内弁と為り、左宰相中将経宗朝臣宣命使と為る、其の文に云う、天皇が詔旨らまと勅りたまう御命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下の民衆聞こし食えよと宣る、摂政従一位藤原朝臣は、宗門相継ぎて、国の賢佐なり、忠貞の心を持ちて、先々の御世を守り、天下の政を相あないたすけ奉る事も久し、茲に因りて太上天皇が伝国の詔命に、摂政の職に治め賜える事在りしかば、朕が践祚の始めの、万機を行う者、功績古たり、しかのみならず纖縦に在る時より、輔導保護仕え奉ること年久し、君臣の道存すと雖も、孫祖の義尤も厚し、頃年も、旧例のままに早く太政大臣の官に上げ賜わむと、念おし御座しを、謙損の心増して深くして、先朝の御宇に、件の官を辞退せり、而るに思う所有りて、太政大臣の官に上げ給い治め賜うと勅りたまう、但し摂政の職は、今もいよいよ益々勤め仕え奉れと勅りたまう御命を、衆聞こし食えと宣る、久安五年十月廿五日、作者大内記長光
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『秘本玉くしげ』上 年貢の由来近来百姓は殊に困窮の甚しき者のみ多し。これに二つの故あり。一には、地頭へ上る年貢甚多きが故也。二つには、世上一同の奢につれて、百姓もおのづから身分のおごりもつきたる故也。まづ一つに、地頭へ上る年貢のはなはだ多きと申す子細は、まづ唐土の上古には、十か一といふを中分の宜しきほどとしたるなれども、後には段段多くなりたり。然れ共、此方の今のごとくに多くはあらず。さて本朝は、大宝のころ令の御定めを考ふるに、廿分の一ほどにあたりて、たとへば米廿俵とる所にて、年貢はわづかに一俵ほどにて済たる也。但しこれにはいささか不審なることありて、別に僕が考へもあれど、たとひその考への如くにしても、十分の一には過ざること也。其外に調庸など云物ありしか共、それ何もほどの事にもあらず。大寳のころかくのごとくなれば、それより以前上古はなほなほすくなかりけん事、思ひやるべし。
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『玉勝間』七の巻 崇徳上皇頼長公に代らせ給ひて御歌詠みて給へる事同記に云う、久安三年三月廿七日、禅閣の七十の賀の礼有り、云々、和歌に堪えざるに依りて、密かに新院に申す、(上古を恥じず)今暁二首を下し給う、キミガヨワサシテモイワジミカサヤマアメノシタニモマサムカギリワ、キミガヘムイマユク爪エノトオケレバキョウノマトイゾツキセザルベキ。手詔に云う、和歌の事、心中に愚案を廻らすと雖も、顕わすべき祝いの心無し、およそ力上古の体に及ばず、また極めて憚り思い給うなり、仍りて度々この旨を申さしめ了んぬ、然れども何事と雖も、繊芥も力の及ぶ程の事は、承るべきの由、存じ思い給うの故に、形のごとく二首之を進覧す、先人に替わりて歌詠むほどの上手は、別事なり。次にまた和歌の体散々にして、厳重の席に披き難し、而るに今進覧せしむるの条、偏に懇志を表し、長く恥辱を忘るるなり、御覧の為の許りなり、明日は努々用いしめ給うべからず、あなかしこあなかしこ、早く破却せらるべきなり。端の歌は、字病にやと覚ゆる事候か、然れども証歌候なり、と有り。これは忠実公七十の賀に、頼長公歌に堪えざるによりて、崇徳天皇の新院にておわしましけるに、請い申し給えるに、詠みて給えるの時の手詔なり。
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『玉勝間』七の巻 祈年祭の猪の事同記に、仁平元年二月四日、右少弁資長申す、祈年祭の猪、近江国未進てえり、云々、九日、庚戌、近江の目代俊弘申して云う、郡司申して云う、祭の前十余日、狩れども、猪之を得ず、連日狩猟すれども、今に得ること無し、先例かくのごときの時、代物を用う、先ず即ち北山抄の四を見るに、承平四年六月の月次祭に、馬の代に調布を進る、(八端)彼の例に任せて、調布八端を以て、猪の代と為すべきの由仰せ了んぬ、同じ趣を以て史に仰すと見ゆ。祈年祭の猪とは、御年神に、白猪を進らるる事なり。古書どもに見えたり。
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