玉勝間 / 七の巻 崇徳上皇頼長公に代らせ給ひて御歌詠みて給へる事
同記云、久安三年三月廿七日、有禪閣七十賀禮、云云、依和歌不堪、密申新院、(不恥上古)今曉下給二首、キミガヨハサシテモイハジミカサヤマアメノシタニモマサムカギリハ、キミガヘムイマユク爪ヘノトヲケレバケフノマトヰゾツキセザルベキ。手詔云、和歌事、雖心中廻愚案、無顯之祝心、凡力不及上古之體、又極憚思給也、仍度度令申此旨了、然而雖何事、纎芥力及程事者、可承之由、存思給之故、如形二首進覽之、先人替を歌讀之程の上手、別事也。次又和歌之體散散、難披嚴重之席、而今令進覽之條、偏表懇志、長忘恥辱也、爲御覽之許也、明日者努努不可令用給也、穴賢穴賢、早可被破却也。端の歌は、字病にやと覺事候歟、然而證歌候也、と有り。これは忠實公七十ノ賀に、賴長公歌不堪によりて、崇德天皇の新院にておはしましけるに、請申給へるに、詠みて給へるの時の手詔なり。
新字:同記云、久安三年三月廿七日、有禅閣七十賀礼、云云、依和歌不堪、密申新院、(不恥上古)今暁下給二首、キミガヨハサシテモイハジミカサヤマアメノシタニモマサムカギリハ、キミガヘムイマユク爪ヘノトヲケレバケフノマトヰゾツキセザルベキ。手詔云、和歌事、雖心中廻愚案、無顕之祝心、凡力不及上古之体、又極憚思給也、仍度度令申此旨了、然而雖何事、繊芥力及程事者、可承之由、存思給之故、如形二首進覧之、先人替を歌読之程の上手、別事也。次又和歌之体散散、難披厳重之席、而今令進覧之条、偏表懇志、長忘恥辱也、為御覧之許也、明日者努努不可令用給也、穴賢穴賢、早可被破却也。端の歌は、字病にやと覚事候歟、然而証歌候也、と有り。これは忠実公七十ノ賀に、頼長公歌不堪によりて、崇徳天皇の新院にておはしましけるに、請申給へるに、詠みて給へるの時の手詔なり。
書き下し
同記に云う、久安三年三月廿七日、禅閣の七十の賀の礼有り、云々、和歌に堪えざるに依りて、密かに新院に申す、(上古を恥じず)今暁二首を下し給う、キミガヨワサシテモイワジミカサヤマアメノシタニモマサムカギリワ、キミガヘムイマユク爪エノトオケレバキョウノマトイゾツキセザルベキ。手詔に云う、和歌の事、心中に愚案を廻らすと雖も、顕わすべき祝いの心無し、およそ力上古の体に及ばず、また極めて憚り思い給うなり、仍りて度々この旨を申さしめ了んぬ、然れども何事と雖も、繊芥も力の及ぶ程の事は、承るべきの由、存じ思い給うの故に、形のごとく二首之を進覧す、先人に替わりて歌詠むほどの上手は、別事なり。次にまた和歌の体散々にして、厳重の席に披き難し、而るに今進覧せしむるの条、偏に懇志を表し、長く恥辱を忘るるなり、御覧の為の許りなり、明日は努々用いしめ給うべからず、あなかしこあなかしこ、早く破却せらるべきなり。端の歌は、字病にやと覚ゆる事候か、然れども証歌候なり、と有り。これは忠実公七十の賀に、頼長公歌に堪えざるによりて、崇徳天皇の新院にておわしましけるに、請い申し給えるに、詠みて給えるの時の手詔なり。
現代語訳
同じ記(台記)に次のようにある。久安三年三月二十七日、禅閣(父の藤原忠実)の七十の賀の祝いがあった、云々。私は和歌が不得手なので、ひそかに新院(崇徳上皇)にお願い申し上げた(昔の人も同じことをしているので恥じない)。今朝早く、二首を下されたのである。「君が代は指してもいはじ三笠山天の下にもまさむかぎりは(君の御代の長さはどれほどとは指して言うまい。三笠山が天の下にある限り続くのだから)」、「君がへむいまゆくすゑの遠ければけふのまとゐぞつきせざるべき(君がこれから過ごされる行く末は遠いので、今日のこの団欒も尽きることはないであろう)」。添えられたご自筆の手紙にはこうある。「和歌のことは、心の中で拙い考えをめぐらしても、表すべき祝いの心が浮かばない。およそ力が昔の人の歌の姿に及ばず、またたいへん憚られることと思っている。それで何度もその旨を申し伝えさせた。しかしながら、どんなことでも、わずかでも力の及ぶ程のことはお引き受けしようと思っているので、形ばかり二首を差し上げる。人に代わって歌を詠むほどの上手は、また別のことである。また歌の体もひどいもので、厳粛な席で披露するのは難しい。それなのに今差し上げるのは、ひとえに懇ろな志を表すためで、長く恥を忘れてのことである。ご覧になるためだけのものである。明日は決してお使いになってはならない。くれぐれも。早く破り捨てられよ。初めの歌は字病(歌病の一つ)ではないかと思われることがあろうか。しかしながら先例となる歌がある」。これは藤原忠実公の七十の賀に、頼長公が歌を苦手としたので、崇徳天皇が新院でいらっしゃった時にお願い申し上げ、お詠みになって下された時の手紙である。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讃岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。
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『玉勝間』二の巻 長保元年女御入内料屏風歌事同記に云う、長徳五年十月廿八日、彼此云う、昨左府に於て和歌を撰定す、是れ入内の女御の料の屏風歌なり、花山院法皇、右衛門督公任、左兵衛督高遠、宰相中将斉信、源宰相俊賢、皆和歌有り、上達部左府の命に依りて、和歌を献ず、往古聞かざる事なり、何ぞ況んや法皇の御製に於てをや、また主人の和歌有り云云、今夕和歌を催さるるの御消息有り、不堪の由を申さしむ、定めて不快の色有らんか、此の事甘心せざる事なり、云云同じく卅日云云、右大弁行成屏風の色紙形を書く、華山法皇・主人相府・右大将・右衛門督・宰相中将・源宰相の和歌、色紙形に書く、皆名を書く、後代已に面目を失う、但し法皇の御製は読人を知らず、左府の歌は左大臣と書く、件の事奇怪の事なり、とあり。左府は御堂の関白道長公にて、御女上東門院の入内のおりの事なり。
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『玉勝間』六の巻 鳥羽殿にて逐日看花歌を講ぜらるる事同じ記に云う、嘉保三年三月一日、午の時ばかり、鳥羽殿に参る、云云。秉燭の後、御遊有り、云云。この間人々、且つ和歌を進む(題者は江中納言、申の時以後出さるるなり、逐日看花)。常に祗候する殿上人十余人、ただ別に召さるる者は、皇大后宮権大夫と下官とばかりなりと聞く。時に庭の桜紛々、岸の柳依々、歌笛の声、誠に幽興に入る。御遊の後、下官を召して講師と為す。序者は院の蔵人縫殿助藤実光(秀才)。春日鳥羽院に侍りて、逐日看花の応製和歌一首を詠む、臣上の字は皆共にするなり。但し他人はただ和歌ばかりを詠み、臣上の字を書かず。中宮大夫読師と為る。漸く和歌を講ずるの処、中宮大夫の歌と、顕季朝臣の歌と、一字も誤らず相合う。また女房の歌三首、色の薄様に書く。講じ了りて、座を立たんと欲する処、勅有りて仰せられて云う、近日毎日、この和歌の興有り、御製の講師、他人を用いるべからず、汝同じく勤仕すべし、と。則ち仰せを奉り、また座に復す。御製を披見し、講ずるの処、已に愚歌に合う。天気咲わしめ御し、満座の人奇と為す。一つには面目なり、愚慮を以て高情に及ぶ。一つには恐畏なり、拙詞を以て御製に叶う。進退これ谷まり、身心度を失う。已に深更に及びて事了る。人々退出す。治部卿と同車して帰洛す(下官の歌に云う、ふくかぜにちりくるはなもみるひとのひかずもともにつもるはるかな。御製に叶うに依りて、書き留めらるるなり)。御製に云う(さきしよりちるまでみればこのもとにはなもひかずもつもるなりけり)。
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『玉勝間』九の巻 新勅撰集の事同書に、文暦元年十一月九日、中納言入道(定家卿)前関白家に於て、新勅撰(先院の御時奏覧せらる)を捜覧す、両殿下監せらる、頗る用捨の事有り、百首を切り棄てらると云云、又入れらるるの人有りと云云。
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『玉勝間』十三の巻 鳥羽ノ法皇崇徳上皇熊野御幸御出立の事同記に、同二年二月五日壬辰、今日両上皇熊野に参詣せしめ給う。寅の尅御進発、権僧正覚宗、両方の御先達と為る、法皇白布の御浄衣、同じく頭巾、絹の小袈裟、御杖を持たしめ給う。上皇、白生絹の御浄衣、(狩衣袴)脛巾藁履御杖等、権中納言藤公能卿、参議同〓長朝臣、上皇の御共に扈従す、云云、三月四日辛酉、両院熊野より還御、法皇稲荷に参らしめ給わず、直ちに鳥羽殿に入御す、去る比法印円行入滅す、若しくは件の事に依るか。件の人、白河院の御子と称すと雖も、頗る疑殆有りと云云。晏駕の昔、議有りて御忌に籠らずと云云。上皇稲荷に参らしめ給い畢んぬと有り。これを見れば、熊野御幸よりかえらせ給いては、稲荷の社に詣で給いてさて御所に入らせ給う例にや有りけむ、尋ぬべし。
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『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊女院の御方(東面)に於て和歌を講ぜらる。題に云う、池上の月を翫ぶ、序題題、予講師を勤め、左大臣読師たり。大納言の歌を講じ了りて後、しばらくして頗る遅々たり、これ左大臣と関白殿との歌の次第の事なり。大殿の命に依りて、先ず関白殿の歌を講じ、次に左大臣、次に大殿。この間女房簾中より、三首の歌を出ださる、薄様三重に書き、扇の上に置かる(扇は銀の骨、画図殊に例なり)、同じくこれを講ず、皆以て秀歌なり。人々感歎す。ここに簾中より、御製を関白に給う、関白大殿に伝え献ず、便宜なり。大殿気色せしめ、講師座を起ちて、臣下の歌に擬す。新中納言通俊卿を召して、御製を講ぜらる、誠に以て優妙なり、感歎に堪えず、満座諷詠し、暁更に及びて各分散す。予今日殿上人の布衣の中に直衣を著く、これ弁官の人一人臣として直衣冠を著けらるる時、便無かるべきの故なり。加之、講師の役を勤むる間、数刻御前に候う、尤も善しと為すのみ、愚意の案、已に礼法に叶う。両殿下(烏帽子直衣)、左大臣公卿(冠直衣)、但しこの中藤中納言(基)・左宰相中将(伊実)・右兵衛督(雅俊)・新宰相中将(宗通)は布衣なり。皇太后宮権大夫(公定)は衣冠、上皇は御烏帽子直衣、と見えたり。これは堀河の天皇の御世にて、鳥羽殿におわしまししは、白川の上皇におわします。大殿と有るは、京極の前の関白師実公、左大臣は、源の俊房公、関白は、京極殿の御子後二条の師通公なり。この時内大臣にて、関白ながら、左大臣の次に立ち給えりき。
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