玉勝間 / 六の巻 鳥羽殿にて逐日看花歌を講ぜらるる事
同記云、嘉保三年三月一日、午時許、參鳥羽殿、云云、秉燭之後、有御遊、云云、此間人人、且進和歌、(題者江中納言、申時以後被出也、逐日看花、)常祗候殿上人十餘人、只聞別召者皇大后宮權大夫與下官許也、于時庭櫻紛紛、岸柳依依、歌笛之聲、誠入幽興、御遊後、召下官爲講師、序者院藏人縫殿助藤實光、(秀才)春日侍鳥羽院、詠逐日看花應製和歌一首、臣上字皆共也、但他人只詠和歌許、不書臣上字、中宮大夫爲讀師、漸講和歌之處、中宮大夫歌、與顯季朝臣歌、一字不誤相合、又女房歌三首、書色之薄樣、講了、欲立座處、有勅被仰云、近日每日、有此和歌興、御製講師、不可用他人、汝同可勤仕、則奉仰、又復座、披見御製、講之處、已合愚歌、天氣令咲御、滿座之人爲奇、一者面目也、以愚慮及高情、一者恐畏也、以拙詞叶御製、進退惟谷、身心失度、已及深更事了、人人退出、與治部卿同車歸洛、(下官哥云、フクカゼニチリクルハナモミルヒトノヒカズモトモニツモルハルカナ、依叶御製、被書留也。)御製云、(サキショリチルマデミレバコノモトニハナモヒカズモツモルナリケリ)。
新字:同記云、嘉保三年三月一日、午時許、参鳥羽殿、云云、秉燭之後、有御遊、云云、此間人人、且進和歌、(題者江中納言、申時以後被出也、逐日看花、)常祗候殿上人十余人、只聞別召者皇大后宮権大夫与下官許也、于時庭桜紛紛、岸柳依依、歌笛之声、誠入幽興、御遊後、召下官為講師、序者院蔵人縫殿助藤実光、(秀才)春日侍鳥羽院、詠逐日看花応製和歌一首、臣上字皆共也、但他人只詠和歌許、不書臣上字、中宮大夫為読師、漸講和歌之処、中宮大夫歌、与顕季朝臣歌、一字不誤相合、又女房歌三首、書色之薄様、講了、欲立座処、有勅被仰云、近日毎日、有此和歌興、御製講師、不可用他人、汝同可勤仕、則奉仰、又復座、披見御製、講之処、已合愚歌、天気令咲御、満座之人為奇、一者面目也、以愚慮及高情、一者恐畏也、以拙詞叶御製、進退惟谷、身心失度、已及深更事了、人人退出、与治部卿同車帰洛、(下官歌云、フクカゼニチリクルハナモミルヒトノヒカズモトモニツモルハルカナ、依叶御製、被書留也。)御製云、(サキショリチルマデミレバコノモトニハナモヒカズモツモルナリケリ)。
書き下し
同じ記に云う、嘉保三年三月一日、午の時ばかり、鳥羽殿に参る、云云。秉燭の後、御遊有り、云云。この間人々、且つ和歌を進む(題者は江中納言、申の時以後出さるるなり、逐日看花)。常に祗候する殿上人十余人、ただ別に召さるる者は、皇大后宮権大夫と下官とばかりなりと聞く。時に庭の桜紛々、岸の柳依々、歌笛の声、誠に幽興に入る。御遊の後、下官を召して講師と為す。序者は院の蔵人縫殿助藤実光(秀才)。春日鳥羽院に侍りて、逐日看花の応製和歌一首を詠む、臣上の字は皆共にするなり。但し他人はただ和歌ばかりを詠み、臣上の字を書かず。中宮大夫読師と為る。漸く和歌を講ずるの処、中宮大夫の歌と、顕季朝臣の歌と、一字も誤らず相合う。また女房の歌三首、色の薄様に書く。講じ了りて、座を立たんと欲する処、勅有りて仰せられて云う、近日毎日、この和歌の興有り、御製の講師、他人を用いるべからず、汝同じく勤仕すべし、と。則ち仰せを奉り、また座に復す。御製を披見し、講ずるの処、已に愚歌に合う。天気咲わしめ御し、満座の人奇と為す。一つには面目なり、愚慮を以て高情に及ぶ。一つには恐畏なり、拙詞を以て御製に叶う。進退これ谷まり、身心度を失う。已に深更に及びて事了る。人々退出す。治部卿と同車して帰洛す(下官の歌に云う、ふくかぜにちりくるはなもみるひとのひかずもともにつもるはるかな。御製に叶うに依りて、書き留めらるるなり)。御製に云う(さきしよりちるまでみればこのもとにはなもひかずもつもるなりけり)。
現代語訳
同じ中右記にいう。嘉保三年三月一日、午の刻(正午ごろ)に鳥羽殿に参上した、云々。灯をともしてから御遊(管絃の遊び)があった、云々。この間、人々はあわせて和歌を献上した(題を出したのは江中納言(大江匡房)で、申の刻(午後四時ごろ)以後に出された。題は「逐日看花(日を追って花を見る)」)。いつもお仕えしている殿上人は十数人で、特別に召された者は皇太后宮権大夫と私だけだと聞いた。折しも庭の桜は乱れ散り、岸の柳はなよなよと揺れ、歌と笛の声が、まことに奥深い興趣をかきたてた。御遊の後、私を召して講師(歌を読み上げる役)とされた。序を書いたのは院の蔵人の縫殿助藤原実光(文章得業生)である。「春の日に鳥羽院に侍して、逐日看花の応製和歌一首を詠む」と書き、「臣」の字などはみな共に書くのである。ただし他の人はただ和歌だけを詠み、「臣」の字などは書かなかった。中宮大夫が読師となった。和歌を順に読み上げていくと、中宮大夫の歌と顕季朝臣の歌とが、一字も違わず一致していた。また女房の歌三首は、色のついた薄様の紙に書かれていた。読み終えて座を立とうとしたところ、勅命があって「近ごろは毎日この和歌の催しがある。御製の講師にはほかの者を用いてはならない。そなたが同じく務めよ」と仰せられた。そこで仰せを承って、また座に戻った。御製を開いて見て読み上げたところ、なんと私の歌と一致していた。上皇はお笑いになり、満座の人々も不思議なことだと思った。一つには面目である、私の愚かな思いが上皇の高いお心に及んだのだから。一つには恐れ多いことである、私のつたない言葉が御製と重なったのだから。進むも退くもならず、身も心も度を失った。夜が更けて事が終わり、人々は退出した。私は治部卿と同じ車で都へ帰った(私の歌は「吹く風に散ってくる花も、それを見る人の日数も、ともに積もっていく春であることよ」。御製と一致したので書き留められたのである)。御製は(「咲いたときから散るまで見ていると、この木の下に、花も日数も積もっていくのだった」)。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊女院の御方(東面)に於て和歌を講ぜらる。題に云う、池上の月を翫ぶ、序題題、予講師を勤め、左大臣読師たり。大納言の歌を講じ了りて後、しばらくして頗る遅々たり、これ左大臣と関白殿との歌の次第の事なり。大殿の命に依りて、先ず関白殿の歌を講じ、次に左大臣、次に大殿。この間女房簾中より、三首の歌を出ださる、薄様三重に書き、扇の上に置かる(扇は銀の骨、画図殊に例なり)、同じくこれを講ず、皆以て秀歌なり。人々感歎す。ここに簾中より、御製を関白に給う、関白大殿に伝え献ず、便宜なり。大殿気色せしめ、講師座を起ちて、臣下の歌に擬す。新中納言通俊卿を召して、御製を講ぜらる、誠に以て優妙なり、感歎に堪えず、満座諷詠し、暁更に及びて各分散す。予今日殿上人の布衣の中に直衣を著く、これ弁官の人一人臣として直衣冠を著けらるる時、便無かるべきの故なり。加之、講師の役を勤むる間、数刻御前に候う、尤も善しと為すのみ、愚意の案、已に礼法に叶う。両殿下(烏帽子直衣)、左大臣公卿(冠直衣)、但しこの中藤中納言(基)・左宰相中将(伊実)・右兵衛督(雅俊)・新宰相中将(宗通)は布衣なり。皇太后宮権大夫(公定)は衣冠、上皇は御烏帽子直衣、と見えたり。これは堀河の天皇の御世にて、鳥羽殿におわしまししは、白川の上皇におわします。大殿と有るは、京極の前の関白師実公、左大臣は、源の俊房公、関白は、京極殿の御子後二条の師通公なり。この時内大臣にて、関白ながら、左大臣の次に立ち給えりき。
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『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊中右記に云う。寛治八年、八月十五日、天晴る、午の時ばかり、大納言殿の御車の後に候いて、鳥羽殿に参入す。先ず宰相の直廬に於て休息し、具さに大納言殿に申す。申の時ばかり、大殿の御直廬に参入し、則ち公卿を引きて参らしむ。先ず鳥羽殿南御所の寝殿の東面に御す、女院も同じく御すなり。女房は南東面に打ち出づ。公卿の座は西廊にて饗饌を居う。人々著かるると雖も、盃酒の儀無し、已に日暮るるに依るなり。御船を東の渡殿に寄せ、上皇乗らしめ給う。大殿・左大臣・関白殿・藤大納言中宮大夫(師忠)・左大将(忠)・皇太后宮権大夫(公)・新宰相中将(宗通)、この外宗忠・左中将有賢、召しに依りて御船に候う。別の仰せ有り、帥大納言(経信)・備中守(政長)朝臣、御船に候うべしとて、御随身を以て尋ね問わるるに、已に数刻に及ぶ。両人追って参加せらる。後に御船を出だす。御船指四人、判官代勘解由次官顕隆・散位忠〓・蔵人高階為賢・源家時(皆布衣)。上達部の船、新大納言(家忠)・右衛門督(公実)・藤大納言(基忠)・新中納言(通俊)・江中納言(匡房)・左宰相中将(仲実)・右兵衛督(雅俊)・中宮権大夫(能実)、武者所四人を以て船指となす。布衣の殿上人の船、頭中将国信朝臣等、四十人ばかり皆布衣。この外御随身小船に副いて前行す。先ず御船に於て御遊有り、藤大納言(拍子)・帥大納言(琵琶)・左大将(箏)・宰相中将(笛)・宗忠(笙)・有賢(和琴)・皇太后宮権大夫(井)・政長朝臣付歌。先ず双調、紀伊州・席田・鳥破急、平調、大平楽破・伊勢海・廻忽・五常楽急、帥大納言朗詠、盤渉調、秋風楽三帖・青海破・蘇合急、各数反に及ぶ。時に雲収まり、天清く月明らかにして、池上の糸竹の調べ、興幽玄に入る。この間小船に棹さし、但馬守隆時朝臣・甲斐守行実朝臣御膳を供す(牙盤三前、打敷・有物有り)。諸卿伝遞してこれを供す。次第に(座に在りながら遞いに上るなり)、中宮大夫陪膳に候わる。公卿の衝重は便ち船の縁に居う。御盃は則ち大殿に給う、大殿は左大臣に指し、左大臣は関白に指し、次第に巡流して、二献に及ぶ。公卿の船にて朗詠数度、夜三更に及び、御船より上らしめ給い了んぬ。
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『玉勝間』六の巻 賀陽院歌合青地の小文の錦。右、紫檀の消坏の台の上に、銀の消盃を居うるなり。左右に筆一双、墨一つを立つること唐人の硯のごとし、台の辺に和歌の書五巻を立つ。打敷は赤地の小文の錦。和歌の書物の巻文、各五巻(春夏秋冬祝、各一巻、瑠璃の軸、色々の色紙、下絵、左方は女絵、右方は男絵、皆歌の情を書くか。美麗過差極まり無し)。歌人(左、女房、中納言君、筑前君、周防掌侍、讃岐君、紀伊君、信濃君、摂津君。右、男房、通俊卿、匡房卿、顕綱朝臣、正家朝臣、頼綱朝臣、俊頼朝臣)。次に講師を召す(左、右大弁基綱朝臣、衣冠。右、下官、直衣)。各々これを講ず。帥大納言判者と為り、中宮大夫紙を執筆す。度毎に勝負す。先ず春夏秋冬祝、次第此のごとし。夜参半に及ぶ。歌講ずるの間、菓子肴物を居う(大殿の陪膳、左少将有宗朝臣、左府殿下、地下の四位、左府は有宗朝臣、殿下は〓家朝臣)。初献は勧盃無し。第二献は皇大后宮権大夫。次に対の南面の饗饌をこの座に移し居え、頻りに盃酌す。暁更に及びて事了る。次に管絃の具を召し、御遊有り。帥大納言(琵琶)、藤大納言(箏)、左大将(笛)、政長朝臣(拍子)、予と宗輔(共に笙)、皇大后宮権大夫(付歌)。呂は、安名尊、鳥の破。律は、更衣、太平楽の破、三台の急。前の池に船楽を儲く(楽人等をして奏せしむ、布衣或いは冠)。次に引出物の馬三疋を牽く(関白、左大臣、帥)。人々退出す。
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『玉勝間』六の巻 賀陽院歌合同じ記に云う、同八年八月十九日、今夜大殿、賀陽院に於て、歌合の興有り。これ永承の例に依りて、女房と男房とを読人と為す。秉燭の間、人々参集す。東の対の南面に、公卿の饗饌を居う。殿上人は、同じく東面の庇の饗、諸大夫の饗は、侍所に在り云云。然りと雖も着かれず。寝殿の巽の角、東面の戸の前に、切燈台二本を立つ(風流無し)。その前に円座二枚を敷き、左右の講師の座と為す。東の透渡殿に、西を上とし南北に対座して、公卿の座を敷く(高麗端、対座)。人々先ず相分かれて著かしめ給う。左方(北)、大殿、殿下、藤大納言(□□)、民部卿(俊明)、右衛門督(公実)、藤中納言(基忠)、江中納言(匡房)、皇大后宮権大夫(公定)。右方(南)、左大臣、帥大納言(経信)、東宮大夫(師忠)。殿上人、大蔵卿道良朝臣、備中守政長朝臣、右大弁基綱朝臣、頭中将国信朝臣、右中弁宗忠、左馬頭師隆朝臣、権中将顕実朝臣、右馬頭兼実朝臣、四位藤少将有家朝臣、左京権大夫俊頼朝臣、四位権少将能俊朝臣、四位侍従宗信朝臣、尾張守忠〓朝臣、蔵人兵部大輔通輔、侍従家政、蔵人右少弁時範、源少将有賢、民部大輔基兼、新少将宗輔、蔵人玄蕃助宗佐、左近将監仲兼、相分かれて渡殿の南北の欄外に候す。次に東の戸の前に、左右の文台を立つ。左、銀の透かしの手巾の筥、白き浮線綾の巾を入れ、打敷。
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『玉勝間』二の巻 円融太上天皇紫野御子日の事この間蹴鞠の事有り、左大将・左衛門督・源中納言・両三位・藤宰相・余及び殿上の侍臣等蹴鞠の事あり、黄昏に及びて仰せて曰く、和歌に至りては、院に於て序を献じ和歌等を置くべし、各者(てえり)、燭を秉りて本院に還り〓御す、公卿を御前に召して歌遊びの事有り、余を召して和歌の講師と為す、右大臣以下和歌を献ず、左大臣は献ぜず、如何如何、左右両丞相に御衣を賜う、納言以下に白掛を賜い、侍臣に疋絹、また御随身に給う、深更に各各分散す、紫野に御する間、内より使右近少将信輔御訪い有り、即ち御簾の外に召し、円座を給いて御消息を申す、余禄を執りて之を被く、拝舞の間、失礼太だ多し、今日四位五位六位皆綾羅を着す、如何、下官は白襖・薄色の狩袴を着するなり。
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『玉勝間』十の巻 歌会同じ記に云う、嘉吉二年九月十八日、今日冷泉中将持和朝臣の宿所に参る、(近衛室町の辺なり)去月この宿所に移住す云々。一盞分撓し、之より雑談に及ぶ。和歌の懐紙の書き様、また会の座に懐紙を置く様、講師已下の条々の作法、具に之を口伝せらる、記録に遑あらざる者なり、云々。同日今夜、飯尾新左衛門尉為数の亭にて和歌会なり、云々。常光院大僧都堯孝題を出すなり。今夜読師たり。蜷川新右衛門入道智蘊講師たり、云々。今夜新右衛門講師の時、堯孝が短冊には、大僧都とよめり。懐紙もまた之に同じ、その外は皆実名、官途実名なり。聊か思惟有るべきか、如何。実名の中、ちと然るべきの輩、微音なり。その験有り、愚存もまたかくの如し。先ず懐紙を講じて後、次に短冊を披講す。
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