玉勝間 / 一の巻 北条ノ時頼がいまはの詞
同書に、弘長三年十一月廿二日、北條ノ時賴入道、最明寺におきて身まかりける時の頌とて、葉鏡高懸、三十七年、一槌打碎大道坦然、弘長三年十一月廿二日、道崇珍重とあり。北條足利の世のほどは、たかきもみじかきも、人みな殊に禪法にまどへりしかば、死なむとするきはに、かかるさとりがましき僞り計するを、いみしきわざに思ひためり。いとうるさく、且つはをこなるわざなりけり。
新字:同書に、弘長三年十一月廿二日、北条ノ時頼入道、最明寺におきて身まかりける時の頌とて、葉鏡高懸、三十七年、一槌打砕大道坦然、弘長三年十一月廿二日、道崇珍重とあり。北条足利の世のほどは、たかきもみじかきも、人みな殊に禅法にまどへりしかば、死なむとするきはに、かかるさとりがましき偽り計するを、いみしきわざに思ひためり。いとうるさく、且つはをこなるわざなりけり。
書き下し
同書に、弘長三年十一月廿二日、北条の時頼入道、最明寺におきて身まかりける時の頌とて、業鏡高く懸く、三十七年、一槌に打ち砕きて大道坦然たり、弘長三年十一月廿二日、道崇珍重とあり。北条・足利の世のほどは、たかきもみじかきも、人みな殊に禅法にまどえりしかば、死なむとするきわに、かかるさとりがましき偽りばかりするを、いみしきわざに思いためり。いとうるさく、かつはおこなるわざなりけり。
現代語訳
同じ書に、弘長三年十一月二十二日、北条時頼入道が最明寺で亡くなったときの頌(辞世の偈)として、「業鏡を高く懸けて三十七年、一槌に打ち砕けば大道は平らかである。弘長三年十一月二十二日、道崇、珍重」とある。北条・足利の世の間は、身分の高い者も低い者も、人はみなことに禅の教えに惑っていたので、死のうとする際に、このような悟りめいた偽りばかりをするのを、立派なことと思っていたようだ。たいへん煩わしく、また愚かなことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひ人の心は、うれしき事は、さしも深くは覚えぬものにて、ただ心にかなわぬ事ぞ、深く身にしみては覚ゆるわざなれば、すべてうれしきを詠める歌には、心深きは少なくて、心にかなわぬすじを、悲しみ憂えたるに、哀れなるは多きぞかし。然りとて、わびしく悲しきを、みやびたりとてねがわむは、人のまことの情ならめや。また同じ法師の、人はよそじに足らで死なむこそ、めやすかるべけれと云えるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にも詠み、常にも云うすじにて、命長からん事をねがうをば、心ぎたなき事とし、早く死ぬるを、めやすき事に云い、この世をいとい捨つるを、いさぎよき事とするは、これみな仏の道にへつらえるものにて、多くはいつわりなり。言にこそさも云え、心のうちには、誰かはさは思わむ。たとい、まれまれには、まことに然か思う人の有らんも、もとよりの真心には有らず、仏の教えにまどえるなり。人のまごころは、いかにわびしき身も、早く死なばやとは思わず、命惜しまぬ者は無し。されば万葉などの頃までの歌には、ただ長く生きたらん事をこそねがいたれ、中頃よりこなたの歌とは、その心うらうえなり。
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『玉勝間』十四の巻 世の人のこざかしき事云ふをよしとする事世の中のこざかしき人は、いわゆる道歌のさまなる俗歌をよみて、さとりがましき事をよく云うものなり。或いは身こそやすけれなど云いて、わが心のさとりにて身のやすきよしを詠むこと、みな儒仏にへつらいたる偽りごとなり。まことには、わが身を安しとして、足る事を知れる者は無きものなり。たとえば人の齢など、七十に及ぶは、まことに稀れなる事なれば、七十までも長らえては、はやく足れりと思うべき事なれども、人みななお足れりとは思わず。末のみじかき事をのみ歎きて、九十までも、百歳までも生きまほしく思うぞ、まことの情なりける。
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『玉勝間』七の巻 仁木頼景法師がみまかれる時の事同書に、同四年十月十二日、伝え聞く、仁木左京大夫頼景法師、今朝卒去すと云々。十三日云々、気止むと云々。十九日、今日、新院御楽の事有りと云々、云々、頼景法師卒去の間、取り敢えず音楽のごときは無益の旨、沙汰有り、禁裏は七箇日已後明日、御沙汰有るべしと云々、武家随分の重人なり。御沙汰然るべきか、仙洞はその沙汰に及ばざるか、ただしまた強いて難とすべからざるかと有り。この頃は、武家の執権と云いし人の卒去のおりも、かかる御沙汰の有りけるなりけり。
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『玉勝間』四の巻 東鏡にしるせる事二つ三つ東鏡に、建保二年二月十日、坊門新黄門(忠信)の使者、京都より参着す、蹴鞠の書一巻を送らる、かの卿去年十二月、紫革の韈を聴さる、宗長朝臣も同じ云々。将軍家諸道を賞翫し給う中に、殊に御意に叶う者は、歌鞠の両芸なり。また同年八月二十九日、去る十六日、仙洞の秋十首歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊にこれを賞翫せしめ給う云々。また同三年七月六日、坊門黄門(忠信卿)去る六月二日の仙洞歌合(衆議判)一巻を将軍家に進ぜらる、これ内々の勅定に依るなり云々、将軍は実朝の大臣なり。この大臣、公暁にころされ給わむとせし頃、いろいろあやしきさとしども有りける中に、公氏御鬢つかうまつりけるに、みづから御鬢の髪を一すじ抜き給いて、形見とて給わせけり。また庭の梅の花を見給いて、ゆゆしき歌をなん詠み給いける、「出でていなばぬし無き宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな、同書にしるしたり。また承久のみだれに、中御門の入道中納言宗行の卿、とらわれて、東にくだらるる時、七月十日に、遠江の国菊河のうまやに宿られけるを、よもすがら寝られず、法華経を読みて、屋の柱に書きつけられける。昔南陽軒の菊水、下流を汲みて齢を延ぶ、今東海道の菊河、西岸に宿りて命を失う、とぞ書きつけられける。
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