玉勝間 / 五の巻 中ごろまでは諸王おほかりし事
園大曆、康永三年の除目に、從五位下爲實王(天曆ノ御後、)貞和二年の除目に、從五位下宗友ノ王(天曆ノ御後、)同三年の除目に、從五位下資方王(寛和ノ御後、)延文四年の除目に、從五位下資能王(寛和ノ御後、)など有り。この程までは、諸王も猶多かりしと見えたり。
新字:園大暦、康永三年の除目に、従五位下為実王(天暦ノ御後、)貞和二年の除目に、従五位下宗友ノ王(天暦ノ御後、)同三年の除目に、従五位下資方王(寛和ノ御後、)延文四年の除目に、従五位下資能王(寛和ノ御後、)など有り。この程までは、諸王も猶多かりしと見えたり。
書き下し
園太暦、康永三年の除目に、従五位下為実王(天暦の御後)、貞和二年の除目に、従五位下宗友の王(天暦の御後)、同三年の除目に、従五位下資方王(寛和の御後)、延文四年の除目に、従五位下資能王(寛和の御後)など有り。この程までは、諸王も猶多かりしと見えたり。
現代語訳
『園太暦』に、康永三年(1344)の除目で従五位下為実王(天暦の天皇=村上天皇の御子孫)、貞和二年(1346)の除目で従五位下宗友王(同じく天暦の御子孫)、同三年の除目で従五位下資方王(寛和の天皇=花山天皇の御子孫)、延文四年(1359)の除目で従五位下資能王(同じく寛和の御子孫)などとある。このころまでは、諸王もまだ多かったと見える。
解説
洞院公賢の日記『園太暦』から、南北朝期の除目(官職任命)に王を名乗る人々が叙位されている記事を拾った段である。諸王とは天皇の子孫で、親王の宣下を受けず、臣籍にも降りずに王と称した人々をいう。宣長の時代には、天皇の遠い子孫が王号のまま朝廷に仕えることはほとんどなくなっていた。そこで宣長は、十四世紀半ばにはまだ村上天皇や花山天皇の流れを引く王が何人も叙位されていることに目をとめ、このころまでは諸王が多かったと推し量っている。日記の叙位の記事を並べるだけで、時代による制度の移り変わりが見えてくる。宣長は古記録を物語や史書と同じく貴重な証拠として扱った。細かな記録の積み重ねから大きな変化を読むという、史料の使い方の手本である。
関連する章句
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