玉勝間 / 七の巻 直綴と云ふ衣
今の世に、直綴と云ふ法衣あり。同書延文二年四月のところに、此名見えたり。又同四年四月十五日、公賢ノ大臣のかしらおろし給ふ所にも、脫直衣、次着法衣、墨染大直綴也。其色濃と見ゆ。
新字:今の世に、直綴と云ふ法衣あり。同書延文二年四月のところに、此名見えたり。又同四年四月十五日、公賢ノ大臣のかしらおろし給ふ所にも、脱直衣、次着法衣、墨染大直綴也。其色濃と見ゆ。
書き下し
今の世に、直綴と云う法衣あり。同書延文二年四月のところに、この名見えたり。また同四年四月十五日、公賢の大臣のかしらおろし給う所にも、直衣を脱ぎ、次に法衣を着る、墨染の大直綴なり。その色濃しと見ゆ。
現代語訳
今の世に、直綴(じきとつ)という法衣がある。同じ書(園太暦)の延文二年四月のところに、この名が見える。また延文四年四月十五日、公賢大臣が出家なさった所にも、「直衣を脱ぎ、次に法衣を着る。墨染の大直綴である。その色は濃い」と見える。
解説
前の段に続き、園太暦から「直綴」という法衣の名を拾い出した段である。直綴は上衣と裳をつなげて縫った僧の衣で、宣長の時代にも用いられていた。その名が南北朝の延文年間にすでに見えること、しかも日記の主である洞院公賢自身が出家する日の記事に、直衣を脱いで墨染の大直綴を着たと書かれていることを示している。短い抜き書きだが、今ある物の名がいつから文献に現れるかを確かめる、言葉の年代測定のような作業である。宣長は膨大な古記録を読みながら、こうした初出の例を丹念に書き留めた。公家が官人の装束を脱いで僧衣に着替える一場面は、一人の人生の転機の記録でもある。物の名と人の営みを同時に伝えるのが、古い日記を読む面白さである。
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 ひろぶた広蓋と云う物、園大暦などに見えたり。また白重の日記に、一品の禅尼の御局よりは、いときよげなるまきえのひろぶたに、おり物のきぬ一領おきて、など見えたり。この日記は、姉小路の中納言基綱の卿の、延徳二年の御法会の事をしるされたるものなり。
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『玉勝間』十二の巻 きがへ同じものがたりに、きがえとり寄せて、きかえてと有り。こは着替えに設けたる衣の由なり。今の世に衣服すべてきがえと言うなるは、これより転りたるなり。
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『玉勝間』七の巻 手代同書に慈厳僧正云々、手代玄円法印を以て、勤修せしむべしと云々と有り。手代と云うこと、法師にも云いしにこそ。
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『玉勝間』十一の巻 中間と云ふものの事永仁三年にしるせる、布衣記と云うふみに、云云若党中間、跡に上下着て召し具す、また中間の事、折烏帽子小結常なり染直垂に大帷を重ね、袴には大口をかさね云云など云えり。然れば中間と云うもの、昔のは、今の世に云うとは、異なるものなりけむ。
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『玉勝間』八の巻 十二ひとへ同じ書に、皇后宮の御方へわたらせ給えれば、宮は、中こき紅梅の十二の御ぞに、同じ色の御ひとえ、くれないの打ちたる、もえぎの御うわぎ、えびぞめの御こうちぎ、花山吹の御から衣、からのうす物の御も、けしきばかり引かけて云云と有り。俗に十二ひとえと云うは、此十二の御ぞに、同じ色の御ひとえ、と有る事より出たる名目にや有らむ。
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『玉勝間』八の巻 ひたたれ後撰集に、ひたたれ乞いに遣わしけるに、うらなん無き、それはきじとや、いかがと云いたれば、藤原の元輔、住吉のきじとはいわじおきつ浪猶うちかけようらはなくとも、台記の別記に、次に家行朝臣を召し、比多多礼(桜萌黄)を賜う、仰せて云う、路頭に定めて寒気有らん、之を以て寒を禦げ、云云と見え、兵範記に、久安五年十一月十一日、今日故姫宮の周闋の御法事を行わる、云云、布施云云、織物の直垂一領(故宮の御衣)、また保元三年二月九日、聟取りのところに、男女相伴いて帳中に入らる、下官〓を覆う(直垂なり)、宇治拾遺物語に、入てねむとするに、綿四五寸ばかりあるひたたれあり云云、此ひたたれひききて、ふしたる心云云、など有るを見れば、直垂はもと、綿を入れて、寒きをふせぐ物にて、衾にもしたりけむ。又昔は女もきたりしにや、後撰集に、裏なしと有るは、綿をつけて、裏の無きを云えるなるべし。
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