論語 / 八佾篇
子曰:『夏禮、吾能言之。杞不足徵也。殷禮、吾能言之。宋不足徵也。文獻不足故也。足、則吾能徵之矣。』
新字:子曰:『夏礼、吾能言之。杞不足徴也。殷礼、吾能言之。宋不足徴也。文献不足故也。足、則吾能徴之矣。』
書き下し
子曰く、『夏の礼、吾能く之を言う。杞は徵すに足らず。殷の礼、吾能く之を言う。宋は徵すに足らず。文献足らざる故なり。足らば、則ち吾能く之を徵せん。』
現代語訳
孔子は言った。「夏の礼については私は語ることができるが、杞の国にはそれを証する資料がない。殷の礼についても語れるが、宋の国には証がない。文献が足りないのだ。もし資料があれば、私は確かにそれを証明できるだろう。」
解説
孔子は「夏の時代の礼については私も説明できるが、その子孫の国である杞にはそれを裏付ける記録が残っていない。殷の礼についても同じで、子孫の宋には証拠となる文献が足りない」と言い、資料さえあれば確かに証明できるのだが、と惜しみました。これは、思い出や言い伝えだけに頼るのではなく、確かな記録や証拠に基づいて物事を語る大切さを教えています。家族の歴史や、地域の言い伝え、日々の仕事の中で培ってきたやり方も、記録に残しておかなければ、時がたつにつれて曖昧になり、やがて誰も確かめられなくなってしまいます。大事な知恵や経験は、口伝えだけで満足せず、書き留めて誰もが見返せる形にしておく。そうした地道な積み重ねがあってこそ、後の人が過去から正しく学び、同じ過ちを繰り返さずに済むのです。
この章句が説くこと
礼史料検証
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