玉勝間 / 六の巻 古き名どころを尋ぬる事
斯くて神の社にまれ、御陵にまれ、歌枕にまれ、何にまれ、遙かなる古へのを、中頃とめ失ひたるを、今の世にして、尋ね定めむことは、大かたた易からぬわざになむ有ける。其ゆゑを云はむには、まづ此古き所を尋ぬるわざは、ただに古、の書どもを考へたるのみにては、知リがたし。いかに委しく考へたるも、書もて考へ定めたる事は、其所にいたりて見聞けば、いたく違ふ事の多き物なり。よそながらは、定かならぬ所も、其國にては、さすがに書も傳へ、語りも傳へて、まがひ無き事も有。。さればみづから其地にいたりて、見もし、そこの事よく知れる人に、問ひ聞きなどもせでは、事たらはず。又ただ一たび物して、見聞キたるのみにても、猶たらはず。行きて見聞て立かへりて、又ふみどもと考へ合せて、又又も行きて、よく見聞たるうへならでは、定めがたかるべし。さて又其ところの人に逢ひて、問ひ聞くにも、心得べき事くさぐさ有り。古への事を、あまりたしかに知りがほに語るは、多くは、書のかたはしを、なまなまに考へなどしたるものの、己がさかしらもて、定め云ふが多ければ、そはいと賴みがたく、中中の物ぞこなひなり。
新字:斯くて神の社にまれ、御陵にまれ、歌枕にまれ、何にまれ、遥かなる古へのを、中頃とめ失ひたるを、今の世にして、尋ね定めむことは、大かたた易からぬわざになむ有ける。其ゆゑを云はむには、まづ此古き所を尋ぬるわざは、ただに古、の書どもを考へたるのみにては、知リがたし。いかに委しく考へたるも、書もて考へ定めたる事は、其所にいたりて見聞けば、いたく違ふ事の多き物なり。よそながらは、定かならぬ所も、其国にては、さすがに書も伝へ、語りも伝へて、まがひ無き事も有。。さればみづから其地にいたりて、見もし、そこの事よく知れる人に、問ひ聞きなどもせでは、事たらはず。又ただ一たび物して、見聞キたるのみにても、猶たらはず。行きて見聞て立かへりて、又ふみどもと考へ合せて、又又も行きて、よく見聞たるうへならでは、定めがたかるべし。さて又其ところの人に逢ひて、問ひ聞くにも、心得べき事くさぐさ有り。古への事を、あまりたしかに知りがほに語るは、多くは、書のかたはしを、なまなまに考へなどしたるものの、己がさかしらもて、定め云ふが多ければ、そはいと頼みがたく、中中の物ぞこなひなり。
書き下し
かくて神の社にまれ、御陵にまれ、歌枕にまれ、何にまれ、遥かなる古えのを、中頃とめ失いたるを、今の世にして、尋ね定めむことは、大かたたやすからぬわざになむ有りける。そのゆえを云わむには、まずこの古き所を尋ぬるわざは、ただに古の書どもを考えたるのみにては、知りがたし。いかに委しく考えたるも、書もて考え定めたる事は、その所にいたりて見聞けば、いたく違う事の多き物なり。よそながらは、定かならぬ所も、その国にては、さすがに書も伝え、語りも伝えて、まがい無き事も有り。さればみずからその地にいたりて、見もし、そこの事よく知れる人に、問い聞きなどもせでは、事たらわず。またただ一たび物して、見聞きたるのみにても、なおたらわず。行きて見聞きて立ちかえりて、またふみどもと考え合わせて、またまたも行きて、よく見聞きたるうえならでは、定めがたかるべし。さてまたそのところの人に逢いて、問い聞くにも、心得べき事くさぐさ有り。古えの事を、あまりたしかに知りがおに語るは、多くは、書のかたはしを、なまなまに考えなどしたるものの、己がさかしらもて、定め云うが多ければ、そはいと頼みがたく、中中の物そこないなり。
現代語訳
こうして神の社であれ、御陵であれ、歌枕であれ、何であれ、遥かな古のものを、中ごろに見失ってしまったのを、今の世になって尋ね定めることは、おおよそたやすくないことなのである。そのわけを言うと、まずこの古い所を尋ねることは、ただ古の書物を考えただけでは知りがたい。どんなに詳しく考えても、書物によって考え定めたことは、その所に行って見聞きすると、ひどく違うことが多いものである。よそから見てははっきりしない所も、その国ではさすがに書物も伝え、語りも伝えて、紛れのないこともある。だから自らその地に行って見もし、そこのことをよく知っている人に問い聞きなどもしなくては、事足りない。またただ一度行って見聞きしただけでも、なお足りない。行って見聞きして帰って、また書物と考え合わせて、さらにまた何度も行って、よく見聞きしたうえでなければ、定めがたいだろう。さてまたその所の人に会って問い聞くにも、心得ておくべきことがいろいろある。古のことを、あまりに確かに知っている顔で語るのは、多くは書物の片端を生半可に考えたりした者が、自分の小賢しさで定めて言っているのが多いので、それはたいそう頼りにならず、かえって物を損なうものである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事木だちなど、二三百年をも経ぬるは、いといと物ふりて見ゆるものなれば、古く見ゆるにつきても、たやすくは定めがたきわざなりかし。村の名、山川浦磯などの名に、心をつけて尋ぬべし。田どころなどのあざなと云う物などをも、よく尋ぬべし。寺の名に、古きが残れるがよく有ることなり。しかは有れどもまた、すべて名によりて、誤る事も有るわざなり。また寺々の縁起と云う物、おおかた例の法師の空ごと勝ちなれど、その中に、まれまれには取るべき事もまじれるものなれば、これはたひたぶるには捨つべきに有らず。古きあとは、中頃法師どもの、国人をあざむきて、仏どころにしなしたるが、いずれの国にも多ければ、ほとけ所をも、その心して尋ぬべし。古き寺には、古き書き物など有りて、古き事の残れる多し。むげに尋ぬべきたずき無き所も、思いかけぬところより、たしかなるしるしの出で来るようも有れば、いたらぬ限り無く、よろずに思いめぐらして、委しく尋ぬべし。かくて尋ね得たりと思うところも、なおたしかには定むべからず。世にさるべき人の定めおきつる所などは、ひがさだめなるも、ついにそこに定まりて、後のまどいとなるわざなりかし。そもそもこのくだりは、名所を尋ぬるわざのみにも有らず、万ずの考えにもわたる事どもありぬべくなむ。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事また世に名高き所などをば、外なるをも、しいておのが国おのが里のにせまほしがるならいにて、ただいささかのより所めきたる事をも、かたくとらえて、強いてここぞと云いなして、しるしを作るたぐいなど、はた世に多きを、さる心して、まどうべからず。ふみなどは、むげに見たる事無き、ひたぶるの賤の男の、覚えいて語ることは、しり口あわず、しどけなく、ひがことのみ多かれど、その中には、かえりておかしき事もまじるわざなれば、さるたぐいをも、心とどめて聞くべきわざなり。されどまた、昔なまなまの物知り人などの、尋ね来たるが、ひが定めして、ここはしかしかの跡ぞなど、教えおきたるを聞きおりて、里人は、まことにさることと信じて、子うまごなどにも、語り伝えたるたぐいも有りしなれば、うべうべしくきこゆる事も、なおひたぶるには信じがたし。またみずからそのところのさまを行き見てさだむるにも、くさぐさ心うべき事ども有り。おおかた所のさまかみさびて、木立しげく物ふりなどしたるを見れば、こここそはと、目とまる物なれど、それはたうちつけには頼みがたし。大かたなにならぬ所にも、古めきたる森はやしなどは、多く有るものなり。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事ふるき神の社の、今は絶えたる、また絶えざれども、定かならず成りぬるなど、いずくにも多かるは、いと悲しきわざなり。神祇官の帳にのれるなどは、欠けてもさは有るまじきわざなるを、中頃の世の乱れに、天の下のよろずの事も、古の掟も、皆みだれに乱れ、絶え失せに絶え失せにたる、万ずにつけて、いともいともかなしきは、乱れ世のしわざなりけり。さるを今の御世は、古えにも稀なるまで、よく治まりて、いともめでたく、天の下栄えに栄ゆるままに、よろずに古をたずねて、絶えたるを起こし、おとろえたるを直し給う御世にし有れば、神の社どもは、殊に古に立ちかえりて、栄ゆべき時なりけり。しか有るにつけては、絶えたるは、跡をだに定かに尋ねまほしく、また今も有りながら、さだかならず、疑わしきをば、よく考え尋ねて、確かにそれと、定め知らまほしきわざになむ有りける。次には神の社ならぬも、古えに名あるところどころ、歌枕なども、今は定かならぬが多かるは、かかるめでたき時世にあたりて、尋ね置かまほしきわざなり。
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『玉勝間』十四の巻 名所歌枕の国郡を論ずるに、古き歌に詠めるをよく考えて、その国郡を定むべし。後世の歌は、ただ歌の趣意により来たれる所を詠む故に、その国所をば知らずそらに詠める故に、後世の歌はさらに拠とするに足らず。題詠のみならず、後世の歌は、その所にいたりて詠めるも取りがたき事あり。いかにと云うに、古き歌枕を、中昔の書に某国にありと注せるには、いみじく誤れる事のみ多きを、後の人、その誤れる注によりて、その国にその名所をつくりかまえて、或いは万葉に詠める某山はこれなりなど云うたぐい多きを、それも年を経ればその名のひろまりて、もとよりその所の如くなれるを、他国の歌人そこに到りて、その名を聞きて詠めるたぐい多ければなり。
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『玉勝間』十の巻 古へより伝はれる事の絶るをかなしむ事世の中に、古えの事の、いたく衰えたる、またひたぶるに絶えぬるなども多かるを、かかるめでたき御代にあたりて、何事も起したてまほしき中に、絶えたるも、跡をたずねて、またはじめむに、始めつべきは、遅くも疾くも、直毘の神の頼みの、なおのこれるを、一たび絶えては、またつぐべきよし無く、また始むべき便り無き事どもこそ、殊に云うかいなく、口惜しきわざには有りけれ。古き氏々など、神代のゆえよし重きなどは、更にも云わず、さらぬも、早く末の絶え果てぬるが多き、今は如何に思いても、二たびつぎ起すべきよし無くなん。これらを思うに、万の古き事は、わずかにも残りて、絶えざるをだに、おとしあぶさず、よくとりしたためて、今より後、絶ゆまじきさまに、如何にも如何にも、強くかたく成し置かまほしきわざぞかし。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事物まなびするともがら、古言の、しか云うもとの意を、知らまほしくして、人にもまず問う事、常なり。然云う本の心とは、たとえば天と云うは、いかなる意ぞ、地と云うは、いかなる意ぞ、と云う類いなり。これも学びの一つにて、さも有るべき事には有れども、さしあたりて、むねとすべきわざにも有らず。大かた古えの言は、然云う本の意を知らむよりは、古人の用いたる意を、よく明らめ知るべきなり。用いたる意をだに、よく明らめなば、然云う本の意は、知らでも有るべきなり。そもそも万の事、まずその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論無けれど、然のみにも有らぬわざにて、事のさまによりては、末よりまず物して、後に本へはさかのぼるべきも有るぞかし。大かた言の本の意は、知り難きわざにてわれ考え得たりと思うも当れりやあらずや、定め難く、多くはあたり難きわざなり。されば言の葉の学問は、その本の意を知る事をば、のどめ置きて、かえすがえすも、古え人のつかいたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざなり。
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