玉勝間 / 六の巻 玉あられ
宣長近き頃玉あられと云ふ書をかきて、近き世にあまねく誤りならへる事どもをあげて、うひ學のともがらをさとせるを、のりながが教へ子として、何事も宣長が言に從ふともがらの、其後の此頃の歌文に、此書に出せる事どもを、なほ誤る事の多かるは、如何なるひがことぞや。此書用ひぬよそ人は、云ふべきかぎりに有らざるを、それだに心さときは、うはべこそ用ひざる顏つくれ、げにと覺ゆるふしぶしは、たちまちにさとりて、ひそかに改むるたぐひもあるを、ましてのりながが教をよしとして、從ひながら、改めざるは、此ふみ讀みても、心にとまらず、やがて忘れたるにて、そはもとより心にしまず、なほざりに思へるからなり。常に心にしめたるすぢは、一たび聞ては、然かたちまちに忘るる物には有らざるを、よそ人の思はむ心も、はづかしからずや。これは玉あられのみにも有らず、何れの書見むも、同じ事ぞかし。
新字:宣長近き頃玉あられと云ふ書をかきて、近き世にあまねく誤りならへる事どもをあげて、うひ学のともがらをさとせるを、のりながが教へ子として、何事も宣長が言に従ふともがらの、其後の此頃の歌文に、此書に出せる事どもを、なほ誤る事の多かるは、如何なるひがことぞや。此書用ひぬよそ人は、云ふべきかぎりに有らざるを、それだに心さときは、うはべこそ用ひざる顔つくれ、げにと覚ゆるふしぶしは、たちまちにさとりて、ひそかに改むるたぐひもあるを、ましてのりながが教をよしとして、従ひながら、改めざるは、此ふみ読みても、心にとまらず、やがて忘れたるにて、そはもとより心にしまず、なほざりに思へるからなり。常に心にしめたるすぢは、一たび聞ては、然かたちまちに忘るる物には有らざるを、よそ人の思はむ心も、はづかしからずや。これは玉あられのみにも有らず、何れの書見むも、同じ事ぞかし。
書き下し
宣長近き頃玉あられと云う書をかきて、近き世にあまねく誤りならえる事どもをあげて、うい学のともがらをさとせるを、のりながが教え子として、何事も宣長が言に従うともがらの、その後のこの頃の歌文に、この書に出だせる事どもを、なお誤る事の多かるは、いかなるひがことぞや。この書用いぬよそ人は、云うべきかぎりに有らざるを、それだに心さときは、うわべこそ用いざる顔つくれ、げにと覚ゆるふしぶしは、たちまちにさとりて、ひそかに改むるたぐいもあるを、ましてのりながが教えをよしとして、従いながら、改めざるは、このふみ読みても、心にとまらず、やがて忘れたるにて、そはもとより心にしまず、なおざりに思えるからなり。常に心にしめたるすじは、一たび聞きては、しかたちまちに忘るる物には有らざるを、よそ人の思わむ心も、はずかしからずや。これは玉あられのみにも有らず、いずれの書見むも、同じ事ぞかし。
現代語訳
私宣長は近ごろ『玉あられ』という書を書いて、近ごろの世にあまねく誤り慣れている事柄を挙げて、初学の人々を諭したのだが、宣長の教え子として何事も宣長の言葉に従っている者たちの、その後の近ごろの歌や文に、この書に挙げた事柄を、なお誤っていることが多いのは、どういう間違いであろうか。この書を用いない外の人は言うまでもないが、その人たちでさえ心の聡い者は、表向きこそ用いない顔をしていても、なるほどと思われる点はたちまちに悟って、ひそかに改めるたぐいもあるのに、まして宣長の教えを良いとして従いながら改めないのは、この書を読んでも心に留まらず、すぐに忘れたのであって、それはもともと心に染みず、なおざりに思っているからである。常に心に深く留めている事柄は、一度聞けばそのようにたちまち忘れるものではないのに、外の人がどう思うかと思うと、恥ずかしくはないか。これは玉あられに限らず、どの書を読むのも同じことである。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』六の巻 かなづかひ仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。
-
『玉勝間』八の巻 今の人の歌文ひがこと多き事近き世の人のは、歌も文も、大かたはよろしと見ゆるにも、猶ひが事の多きぞかし。されど其のたがえるふしを、見知れる人はた世に無ければ、唯だかいなでに、此処かしこえんなる詞を使い、よしめきて、詠みなし書き散らしたるをば、誠に善しと見て、人のもてはやし、ほめたつれば、心をやりて、したり顔すめる、いとかたはら痛く、おこがましくさえぞ思わるる。さるにつけては、斯く云うおのが物する事も、猶いかにひが事有らむと、物よく見知れらむ人の心ぞ、恥しかりける。人のひが事の、よく見え分かるるにつけては、我はよくわきまえたれば、ひが事はせずと、思いほこれど、古えの事の心をさとり知るすじは、限り無きわざにし有れば、此外あらじとは、いとなん定め難きわざなりける。
-
『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事古は、かたえの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書きても、読みたがうる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みずからこそ心得たらめ、かたえの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがえ、写しひがむるたぐいのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思いとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがえやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたわには有るなり。また古言などは、殊に人の読みたがえ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ごとに仮字づけしなどして、心高き人には、わらわるるを、みずからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
-
『玉勝間』六の巻 書うつし物書く事ふみを写すに、同じくだりのうち、或るはならべるくだりなどに、同じ詞の有る時は、見まがえて、そのあいだなる詞どもを、写し漏らす事、常によく有るわざなり。また一ひらと思いて、二ひら重ねてかえしては、その間の一ひらを、みながら落とすことも有り。これら常に心すべきわざなり。またよく似て、見まがえやすき文字などは、殊にまがうまじく、たしかに書くべきなり。これは写しがきのみにもあらず、おおかた物書くに、心得べき事ぞ。すべて物を書くは、事のこころをしめさむとてなれば、おうなおうな文字さだかにこそ書かまほしけれ。さるをひたすら、筆のいきおいを見せむとのみしたるは、いかなる事とも、読み解きがたきが、世に多かる、あじきなきわざなり。常に書きかわす、消息文なども、文字読みがたくては、云いやるすじ、ゆきとおらず、読む人はた苦しみて、かしらかたぶけつつ、かえさい読めども、ついに読み得ずなどしては、ここ読みがたしと、かえし問わんも、さすがに無体しきようなれば、ただおしはかりに心得ては、事たがいもするぞかし。
-
『玉勝間』二の巻 わがをしへ子にいましめおくやう吾に従いて物まなばむともがらも、わが後に、また善き考えのいできたらむには、必ずわが説にななづみそ。わが悪しき故を云いて、善き考えをひろめよ。すべておのが人を教うるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用うるには有りける。道を思わで、いたずらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。
-
『玉勝間』八の巻 歌もふみもよくととのふはかたき事近き代の人の歌ども文どもを、見あつむるに、一ふしおかしと目とまる事は、ほどほどにあまたあめれど、それはた如何にぞや覚ゆる所は交りて、大かた瑕無くととのいたるは、おさおさ見えず。これは思えば、後の世にして、古えをまねぶ事は、いといと難きわざになむ有ける。古えのかしこき人々のだに、是れはしも、露の瑕なしと覚ゆるは、多かる中にも、少くなん有れば、まして今の人のは、いささかなる瑕をさえに、云いたてむは、あながちなるにや有らむ、されど同じくは、人のいささかも難ずべき節まぜぬさまにこそはあらまほしけれ。よき程にて、心をやるをば、もろこしの古えの人も、善からぬ事に云い置きけるをや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る