玉勝間 / 六の巻 岩くらうつ
同百首に榊兼昌、「いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊たてたり。此下句、神代ノ卷に、神籬磐境と有る物のさまと聞ゆ。いはくらうつとは、磐をもて座をかまふる意なるべし。
新字:同百首に榊兼昌、「いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊たてたり。此下句、神代ノ巻に、神籬磐境と有る物のさまと聞ゆ。いはくらうつとは、磐をもて座をかまふる意なるべし。
書き下し
同じ百首に榊兼昌、「いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊たてたり。この下句、神代の巻に、神籬磐境と有る物のさまと聞こゆ。いわくらうつとは、磐をもて座をかまうる意なるべし。
現代語訳
同じ百首に榊兼昌の「生駒山の手向けの場所はここであろうか、木の下に岩座を築いて榊を立ててある」という歌がある。この下の句は、日本書紀の神代の巻に「神籬磐境」とあるものの有様と聞こえる。「いわくらうつ」とは、岩で神の座を設ける意味であろう。
解説
百首歌に詠まれた「岩くらうつ」という言葉を、日本書紀の神代巻の「神籬磐境(ひもろぎ・いわさか)」に結びつけた一段である。生駒山の峠の手向けの場で、木の下に岩を組んで座を設け、榊を立てている、という歌の情景を、宣長は神を招き祀る古い形そのものと見る。神籬は常緑の木を立てて神の宿る所とするもの、磐境は岩で囲んだ祭りの場とされる。社殿を建てる以前の神祭りの姿が、平安後期の旅の歌の中に残っていた、というのである。古事記や日本書紀の研究に生涯をかけた宣長にとって、神代の記述が後の世の実景と重なることは大きな喜びだった。古い信仰の形は、案外身近な風景の中に生き延びている。
関連する章句
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