玉勝間 / 六の巻 童のいろはを書く事
台記に、久安六年正月十二日、今日今麻呂參御前、依勅書以呂波と有り。此比も童にいろはを書かせしなり。今麻呂は、隆長卿のわらは名なり。
新字:台記に、久安六年正月十二日、今日今麻呂参御前、依勅書以呂波と有り。此比も童にいろはを書かせしなり。今麻呂は、隆長卿のわらは名なり。
書き下し
台記に、久安六年正月十二日、今日今麻呂御前に参る、勅に依りて以呂波を書く、と有り。この比も童にいろはを書かせしなり。今麻呂は、隆長卿のわらわ名なり。
現代語訳
台記に「久安六年正月十二日、今日、今麻呂が御前に参上し、勅命によっていろはを書いた」とある。このころも子どもにいろはを書かせたのである。今麻呂は隆長卿(藤原隆長)の幼名である。
解説
平安末期にも子どもがいろはを書いて手習いをしていたことを、藤原頼長の日記台記で示した短い一段である。久安六年(1150)、頼長の子の今麻呂が天皇の御前に召され、勅命でいろはを書いたという。今麻呂は後の藤原隆長である。いろは歌は仮名を一度ずつ使った手習いの手本で、宣長の時代の寺子屋でも子どもはまずいろはを習った。宣長は、自分たちの時代の手習いの形が六百年以上前にさかのぼることを確かめている。学びの入口の形は、驚くほど長く変わらずに受け継がれることがある。天皇の前で筆をとった幼い子の緊張まで想像させる記事である。
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