玉勝間 / 六の巻 わらうづ足をくふ
金葉集連歌のはし書に、和泉式部が、賀茂にまゐりけるに、わらうづに足をくはれて、紙を卷きたりけるを見てと有り。
新字:金葉集連歌のはし書に、和泉式部が、賀茂にまゐりけるに、わらうづに足をくはれて、紙を巻きたりけるを見てと有り。
書き下し
金葉集連歌のはし書に、和泉式部が、賀茂にまいりけるに、わろうずに足をくわれて、紙を巻きたりけるを見てと有り。
現代語訳
金葉集の連歌の詞書に、「和泉式部が賀茂に参詣したときに、藁沓に足を食われて(擦りむいて)、紙を巻いていたのを見て」とある。
解説
履物が足に当たって傷つくことを「足を食う」と言うのが、平安時代にすでにあったことを示す短い一段である。金葉集の連歌の詞書に、和泉式部が賀茂に参詣した折、藁沓に足を食われて紙を巻いていた、とある。この後、それを見た人が付けた連歌が続く場面である。靴擦れを「靴に足を食われる」と言う言い方は今も残っている。宣長は題に「わらうづ足をくふ」と掲げ、日常の何気ない言い回しが、恋の歌人として名高い和泉式部の逸話に出てくることを書き留めた。雅な歌集の中に、藁沓で足を擦りむいた生身の人間の姿がある。言葉の歴史は、こうした小さな場面の積み重ねで作られている。
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 事のはじめてそのきはになるを口と云ふ事俗語に、事の始めてその際になるを、なにがし口と云うこと、ふるし。拾遺集物の名に、くち葉色の折敷、あしひきの山の木の葉のおち口は色の惜しきぞあわれなりける。
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『玉勝間』六の巻 鳥無き里のかはほり和泉式部家集に、「人も無く鳥も無からん島にてはこのかわほりも君もたずねむ。「うらさびて鳥だに見えぬ島なればこのかわほりぞうれしかりける。鳥無き里の蝙蝠と云うたとい言、そのかみより有りけるにこそ。
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『玉勝間』十の巻 てづつ歌の事を論じたるふみどもに、てづつなりと云うこと見えたり。古くは紫式部日記にも、いちと云う文字をだに、書きわたし侍らず、いとてづつにあさましく侍り、と見えたり。
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『玉勝間』八の巻 すそをつまげる俗言に、衣のすそをつまげると云うは、万葉集二十の巻の長歌に、御裳のすそつみあげかきなで、と有る、此つみあげのつづまれる詞なり。
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『玉勝間』三の巻 こたつと云ふ物のうたしわすばかり、これかれ集まりて、埋火を題にて、歌よみける日、今の世のこたつと云う物を詠めと、人の云いければ、むしぶすまなごやが下の埋み火に足さしのべてぬらくしよしも。と詠めりければ、皆人笑いて止みぬ。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つうまのはなむけせんとて、人を待ちけるに云云、人をと云うこと、あまれり、真字本には無し。但し上なる、物へいく人にと云う詞の、無き本も有り。それは人を待ちけるにてよろし。又男、「行く水と過ぐるよわいと云云、この歌この条にかなわず、真名本に無きぞ善き。又男女の忍びありきしける云云、この詞も、このくだりにかなわず。人知れぬ物思いけり、この詞いたずらなり。むかし心つきて云云、心つきて、聞えず。真名本に、栄而と有るも心得ず。田からんとては、男の事にて、この男の田からむとてあるを見て、と云う意なり。かくてものいたくやみて云云、この事、上の詞歌に似つかず、別儀なりしが、詞ども落ちて、乱れたるなるべし。昔年ごろ音づれざりける女、昔の下に、男のと云う事無くては、足らず。又よさりこの有りつる云云の上にも、その男、或いはその人など有るべきことなり。「これやこの我に云云、この歌、おうみをと云うこと、聞えず。近江に云い掛けたりとせんも、しいごとなり。もし然らば、上に近江の国の事無くては、ととのわず。又下の句も、これやこのと云えるにかなわず。昔よごころつける女云云、これは、女にてはかなわず、真名本に、嫗女と有るぞよろしき。仮字の乱れたるより、斯かるまぎれもおのずからなり。
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