玉勝間 / 六の巻 しはつ山 笠縫ノ島
里人昔より笠をぬふ事を業として名高く、童謠にもうたへり。今も里ノ長幸田喜右衞門と云ふ者の家より、御即位のをりは、內裏へ菅を獻る。又讚岐の殿へも、圓座の料の菅をまゐらすとぞ。延喜ノ內匠寮式に、伊勢齋王ノ野宮ノ裝束の中に、御輿中子菅蓋一具、(菅井骨料材、從攝津國笠縫氏參來作、)と有り。笠縫氏は、此所の人にぞ有りけむ。さて此深江村は、大坂ノ城より東にあたりて、河内の堺に近し。此地古へは島なりしよし、里人云ひ傳へたり。まことに此わたり古、は、北の方は難波堀江に續き、東は大和川、南西は百濟川、そのほかも小川共多く流れあひて、廣き沼江にて有しとおぼしくて、難波の古キ圖のさまも、然か見えたり。又今此里人の語るを聞くに、此村のみ地高くて、ほとりは、いづ方もいづ方も地ひきし。井など掘れば、葦の根貝のからなど出づと云へり。斯くて此ところ、かのしはつ山の坂路より、北にあたりて、よきほどの見渡しなれば、島こぎ隱るたななし小船、とは詠めるなりけり。
新字:里人昔より笠をぬふ事を業として名高く、童謡にもうたへり。今も里ノ長幸田喜右衛門と云ふ者の家より、御即位のをりは、内裏へ菅を献る。又讃岐の殿へも、円座の料の菅をまゐらすとぞ。延喜ノ内匠寮式に、伊勢斎王ノ野宮ノ装束の中に、御輿中子菅蓋一具、(菅井骨料材、従摂津国笠縫氏参来作、)と有り。笠縫氏は、此所の人にぞ有りけむ。さて此深江村は、大坂ノ城より東にあたりて、河内の堺に近し。此地古へは島なりしよし、里人云ひ伝へたり。まことに此わたり古、は、北の方は難波堀江に続き、東は大和川、南西は百済川、そのほかも小川共多く流れあひて、広き沼江にて有しとおぼしくて、難波の古キ図のさまも、然か見えたり。又今此里人の語るを聞くに、此村のみ地高くて、ほとりは、いづ方もいづ方も地ひきし。井など掘れば、葦の根貝のからなど出づと云へり。斯くて此ところ、かのしはつ山の坂路より、北にあたりて、よきほどの見渡しなれば、島こぎ隠るたななし小船、とは詠めるなりけり。
書き下し
里人昔より笠をぬう事を業として名高く、童謡にもうたえり。今も里の長幸田喜右衛門と云う者の家より、御即位のおりは、内裏へ菅を献る。また讃岐の殿へも、円座の料の菅をまいらすとぞ。延喜の内匠寮式に、伊勢斎王の野宮の装束の中に、御輿の中子の菅蓋一具(菅并びに骨の料の材は、摂津国の笠縫氏より参り来たりて作る)、と有り。笠縫氏は、この所の人にぞ有りけむ。さてこの深江村は、大坂の城より東にあたりて、河内の堺に近し。この地古えは島なりしよし、里人云い伝えたり。まことにこのわたり古は、北の方は難波堀江に続き、東は大和川、南西は百済川、そのほかも小川ども多く流れあいて、広き沼江にて有りしとおぼしくて、難波の古き図のさまも、しか見えたり。また今この里人の語るを聞くに、この村のみ地高くて、ほとりは、いず方もいず方も地ひきし。井など掘れば、葦の根貝のからなど出ずと云えり。かくてこのところ、かのしはつ山の坂路より、北にあたりて、よきほどの見渡しなれば、島こぎ隠るたななし小船、とは詠めるなりけり。
現代語訳
里人は昔から笠を縫うことを生業として名高く、童謡にも歌っている。今も里の長の幸田喜右衛門という者の家から、御即位の折には内裏へ菅を献上する。また讃岐の殿へも円座の材料の菅を差し上げるという。延喜式の内匠寮式に、伊勢の斎王の野宮の装束の中に「御輿の中子の菅蓋一具(菅と骨の材料は、摂津国の笠縫氏が参上して作る)」とある。笠縫氏はこの所の人であったのだろう。さてこの深江村は大坂城から東に当たって、河内との境に近い。この地は古は島であったと里人が言い伝えている。まことにこのあたりは古、北は難波堀江に続き、東は大和川、南西は百済川、そのほかも小川が多く流れ合って、広い沼沢であったと思われて、難波の古図のありさまもそのように見える。また今この里人の語るのを聞くと、この村だけ土地が高くて、周りはどちらもどちらも土地が低い。井戸などを掘ると、葦の根や貝殻などが出るという。こうしてこの所は、あのしはつ山の坂道から北に当たって、ちょうどよい見晴らしなので、「島漕ぎ隠るたななし小舟」と詠んだのであった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 しはつ山 笠縫ノ島古今集大歌所の歌、しはつ山ぶり、「しはつ山うち出でて見れば笠ゆいの島こぎかくるたななしおぶね、これは万葉三の巻に、四極山打越見者笠縫之島榜隠無小船、と有る歌なるを、笠ゆいとは、歌いひがめたるなり。さて、しはつ山笠ぬいの島は、或る人の云わく、ともに津の国なり、しはつ山は、今の世、住吉より東の方、喜連と云う所へゆく道の間に、岡山のひきき坂あり、これなり。雄略紀に、十四年正月、呉の国人の参れるところに、云云住吉津に泊まる、この月呉の客の道の為に磯歯津路を通し、呉坂と名づく、と有り。今云う喜連は、久礼を訛れるなり。このところ住吉の郡の東のはて、河内の堺にて、古は河内の国渋河の郡につきて、伎人郷と云いし所なり。今もこの道、西は住吉の東の門より、東は河内の柏原までとおりて、古に呉の国の人のとおりし道なりと、語り伝えたり。難波の古の図を見るに、住吉の社の南の方に、細江とて、沼江ありて、そこに、しはつと記したり。万葉六の巻に、千沼廻より雨ぞ降り来る四八津の泉郎網手綱乾せり濡れあえんかも、右一首、住吉の浜に遊覧して宮に還る時、道の上にて守部王詔に応じて作る歌、と有るにかなえり。さて笠縫の島は、今東生の郡の深江村と云うところ、これなるべし。この所、菅田多く有りて、その菅他所より勝れたり。
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『玉勝間』三の巻 下樋小川かくて此川も、かの真盛川の上たる小川どもの内の一つなるを以て思うに、此下樋、古より然かせる事にて、下樋小川と云う名は、もしくは是によりて負えるには有らざるにや。此事よし有りげにおぼゆる故に、しるしつ。まことや上に云える細汲岸江と云うところは、伊勢勅使部類記に、嘉承二年二月十一日、伊勢奉幣使進発云云、壱志駅を出づ、岸江の南、大神宮の検非違使二人来る、祗承たるに依るなり、(伊勢の祗承帰るなり、また、長治二年八月十六日、伊勢勅使進発云云、十八日急ぎ立つべしと雖も、潮干を待つの間、巳の終りに及ぶ、沐浴解除す、保曾久美の南江の潮に依りて、疋駕暫く国立ち神宝を留め奉るは、潮干を待つ故なり、岸江の南、仕承の検非違使来向す、伊勢の仕承帰り去る、櫛田川を渡るの後、暫く休息す云云、と見えたり。岸江の南と云える、即ち下樋小川なり。岸の江は、今も松坂のすこし東にて、西岸の江東岸の江とて有り。細汲は、細頸とも云えり、松坂の半里ばかり北の海辺にて、後に松が島とて、北畠の信雄の君の、城を築かれし所なり。今の松坂は、その松が島の城を、引きうつせるなり。
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『玉勝間』十三の巻 遠江国より大神宮に神御衣を織て奉る事遠江国人、内山真龍が云えるは、かの国の浜名の郡神戸の〓岡本村と云うに。機殿有りて、年毎に、四月と九月と、神御衣を織りて、伊勢の内宮に奉る。そのはた殿は、かの村に、神氏目大夫と云う者、世世相伝えて、年ごとに新しく造る、萱葺の屋なり。神庫もあり。ふるめきたる造りざまなり。神御衣は、年ごとに、三河の国の大野村と云うより、生糸を、この岡本村におくり奉るを、件の機殿にて織りて奉る。和たえなり、と云いき。
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『玉勝間』三の巻 下樋小川伊勢の下樋小川は、古、飯高の郡と飯野の郡との堺にて、飯高の郡とも、飯野の郡とも、書どもには有り。神領と国領との堺にて、駅使の鈴の声を止めし所なり。然るに此川、今はさだかならず。まず昔の大道は、今の大道より東北に在りて、飯高の郡の細汲平生大口江津岸の江、飯野の郡の朝田立入清水など云う村を経て、斎宮にいたる道にて、今も其道あり、三渡りより分るるなり。さて或人の説に、岸の江村と朝田村とのあいだ、東岸の江村を離れて、すこし東に、鈴止の森と云いて、小さき塚あり、これ下樋小川の跡なりと云えり。今は川は流れの変りて、其塚のあたりにはあらず、やや東の方に在りて、真盛川と云いて、土橋を渡せる川なり。此川の上、今の大道にては、飯高の郡の内にて、下村と上川村との間なる小川、又徳和村と下村との間の小川など是なり。さて今の大道、松坂の東なる、徳和村の東のはずれに、貧乏川と云う有りて、土橋を渡せる、其の少し上の方に、此の貧乏川の底の地の下を、西より東へよこぎりに、樋を通して流す川一つあり。そは其川の上の方、地ひきくして、かの貧乏川へ一つに落しがたき故に、しか下樋をとおして、東の地ひきき方へ流せるなり。
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『玉勝間』二の巻 又立田川立田川と云うは、前の巻にいえる如く、山崎川の事なるを、そは今いずれの川ならむ。かのわたりの事、よくも知らで、年ごろいぶかしかりつるを、ことし寛政五年三月、京より大坂に下れるかえるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、この川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀬川をおきては、川ひとつも無し。さてつらつら考うるに、水無瀬川と云うは、後の名にて、この河ぞ古の立田川なるべき。この川、山崎と水無瀬とのさかいにあり。山城の国と津の国との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津の国島の上の郡になん有りける。今は狭き河なれど、かなたこなたの堤高くて、水はよろしきほどの流れなるを思うに、古はややひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくは成しつるなるべし。さて立田川に詠み合わせたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城の国乙訓の郡、玉手より祭り来る酒解神社、(名神大月次新嘗)これを続後紀また臨時祭式などに、山崎の神ともあれば、この神社によりたる名にて、すなわち山崎山の事にぞあるべき。この社は、すなわち今の山崎天王なりとも云えり。
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『玉勝間』十一の巻 みちのくの名所陸奥の国の事どもを記せる物に、宮城郡に利府村と云う有り、仙台より原町通り三里廿八町余あり。その利府村のならびなる高野村と云うに、とうが菅とて名菅あり。その村の田の中に、二三間四方垣を結いめぐらして、里の百姓、国主の命によりて、預り居るなり。古歌に「玉篠に霰たばしる音きけばいとどぞさゆるとうの菅ごもと云えり。また塩竈六社大明神、仙台より四里半ばかり有り。この国にて最大社なり、その宮の下に、塩焼竈と云うあり、大きなる円盆のごとし、この物の中に、つねに潮九分目ばかり有りて、いかなる旱にも減る事無く、また洪水のおりも増すこと無く、同じことなり。いとあやしき物なり。海ぎわより三四町ばかり離れて、市中石段の上いがきの内に、五つ並びてあり。もとは六つ有りしに、一つは海へ沈みしとぞ。その所を今釜が淵と云うなりと云えり。また名取川、仙台近き大道の内にて、中田の宿と長町の宿との間に有り、広さ四十六間ありと云えり。また緒絶川、仙台より南部へゆく大道にて、古川宿と荒谷の宿との間に有り、橋は長さ八間広さ二間と云えり。また桜川、同じ大道にて、一の関の宿と前沢宿との間に有りと云えり。
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