玉勝間 / 六の巻 節下大臣
御禊の時に、節下ノ大臣と云ふ事有り。そは玉藥に、建曆二年十月廿八日此日天皇臨鴨河修禊云云、節下左大臣良輔云云、左大臣起座、出自宣仁敷政等門、經宣陽春華兩門、向標下畢、件標、建禮門南去十九丈、立節旗標、南去一丈、立節下大臣標云云、と有るを以て見れば、節旗ノ下に近き所に立ゆゑの名なるべし。
新字:御禊の時に、節下ノ大臣と云ふ事有り。そは玉薬に、建暦二年十月廿八日此日天皇臨鴨河修禊云云、節下左大臣良輔云云、左大臣起座、出自宣仁敷政等門、経宣陽春華両門、向標下畢、件標、建礼門南去十九丈、立節旗標、南去一丈、立節下大臣標云云、と有るを以て見れば、節旗ノ下に近き所に立ゆゑの名なるべし。
書き下し
御禊の時に、節下の大臣と云う事有り。そは玉薬に、建暦二年十月二十八日、この日天皇鴨河に臨みて禊を修す云云、節下は左大臣良輔云云。左大臣座を起ち、宣仁・敷政等の門より出で、宣陽・春華の両門を経て、標の下に向かい畢んぬ。件の標は、建礼門の南へ去ること十九丈、節旗の標を立つ、南へ去ること一丈、節下大臣の標を立つ云云、と有るを以て見れば、節旗の下に近き所に立つゆえの名なるべし。
現代語訳
御禊のときに、「節下の大臣」ということがある。それは玉蘂に「建暦二年十月二十八日、この日、天皇は鴨川に臨んで禊をなさった、云々。節下は左大臣良輔、云々。左大臣は座を立ち、宣仁門・敷政門などから出て、宣陽門・春華門の両門を経て、標のもとへ向かった。その標は、建礼門から南へ十九丈離れた所に節旗の標を立て、そこからさらに南へ一丈離れた所に節下大臣の標を立てる、云々」とあるのによって見れば、節旗の下に近い所に立つがゆえの名であろう。
解説
関連する章句
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