玉勝間 / 六の巻 大名
白川顯廣ノ王ノ記の、安元三年四月のところに、諸國大名、不應國役と有り。大名と云ふ名、其ころも有けん。
新字:白川顕広ノ王ノ記の、安元三年四月のところに、諸国大名、不応国役と有り。大名と云ふ名、其ころも有けん。
書き下し
白川顕広の王の記の、安元三年四月のところに、諸国の大名、国役に応ぜずと有り。大名と云う名、その頃も有りけん。
現代語訳
白川顕広王の記の安元三年四月のところに、「諸国の大名が国役に応じない」とある。大名という名が、そのころにもあったのであろう。
解説
大名という言葉が平安末期にすでに使われていたことを示す短い一段である。神祇伯を世襲した白川家の顕広王の日記、安元三年(1177)の条に「諸国大名、国役に応ぜず」とある。宣長の時代の大名は一万石以上の領主を指したが、もとは大名田堵、つまり多くの名田を持つ有力者を指す言葉であった。国の課役に応じない有力者、という記述は、中央の統制が地方に及ばなくなっていく平安末期の姿もうかがわせる。宣長は評を加えないが、今の世の身分の呼び名が、中身を変えながら古くから続いていることに気づかせる。同じ言葉が時代によって別のものを指すことは多く、古い用例を読むときの落とし穴にもなる。
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