玉勝間 / 六の巻 修明門院に強盗おし入し事
同仁治元年十二月一日の記に云く。一夜(不聞其日)群盜推參修明門院、女房等皆悉過其殃、結句奉剝仙院、云云と云へる事見えたり。そのかみ北條ノ泰時が、政とりおこなひける程にて、天の下よく治まりたりと云へるに、猶かくやむことなき御許に、强盜のおしいり參りて、なやまし奉りしは、いともいともかしこく、云はんかた無きまがこと、今の御代のめでたきに思ひくらぶれば、及ばざりし事、こよなしかし。ついでに云ふ、結句と云ふ詞、昔は、はてにはと云ふ意につかへるを、今の世に、かへりてと云ふこころに使ふは、いたく移れる物なり。
新字:同仁治元年十二月一日の記に云く。一夜(不聞其日)群盗推参修明門院、女房等皆悉過其殃、結句奉剥仙院、云云と云へる事見えたり。そのかみ北条ノ泰時が、政とりおこなひける程にて、天の下よく治まりたりと云へるに、猶かくやむことなき御許に、強盗のおしいり参りて、なやまし奉りしは、いともいともかしこく、云はんかた無きまがこと、今の御代のめでたきに思ひくらぶれば、及ばざりし事、こよなしかし。ついでに云ふ、結句と云ふ詞、昔は、はてにはと云ふ意につかへるを、今の世に、かへりてと云ふこころに使ふは、いたく移れる物なり。
書き下し
同じ仁治元年十二月一日の記に云わく。一夜(その日を聞かず)群盗修明門院に推参し、女房等皆悉くその殃に過う、結句仙院を剥ぎ奉る、云云と云える事見えたり。そのかみ北条の泰時が、政とりおこないける程にて、天の下よく治まりたりと云えるに、なおかくやんごとなき御許に、強盗のおしいり参りて、なやまし奉りしは、いともいともかしこく、云わんかた無きまがこと、今の御代のめでたきに思いくらぶれば、及ばざりし事、こよなしかし。ついでに云う、結句と云う詞、昔は、はてにはと云う意につかえるを、今の世に、かえりてと云うこころに使うは、いたく移れる物なり。
現代語訳
同じ仁治元年十二月一日の記にいう。「先日の一夜(その日は聞いていない)、群盗が修明門院に押し入り、女房たちはみなことごとくその災いにあった。挙げ句の果てには女院の御衣まで剥ぎ取り申し上げた」云々ということが見えている。当時は北条泰時が政治を執り行っていたころで、天下はよく治まっていたと言われているのに、それでもこのように尊い御方のもとに強盗が押し入り申し上げて、苦しめ申し上げたのは、まことに恐れ多く、言いようのない禍事である。今の御代のめでたさに思い比べると、及ばなかったことこの上ない。ついでに言う。「結句」という言葉は、昔は「果てには」という意味で使っていたのを、今の世で「かえって」という意味で使うのは、たいそう移り変わったものである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 平戸記平戸記にいわく、仁治三年正月十六日云々、凡そ空位数日に及ぶ、偏に是れ関東の所為なり、十七日云々、阿波院の宮、武士の縁に依りて、一定御出立の由、世以て風聞す、前内府(定通公)の妻、使縁者、泰時・重時等の姉妹なり、此の如きの間、私に使者を関東に差し遣わし、慇懃の旨有りと云う、十九日云々、巷説に云う、関東の飛脚、此の申の剋許りに武家に著くと云う、此の由を以て且つ一条殿に申すと云う、是に依りて京中物念と云う、抑も此の事、関東計らい申すの条、末世の至りと知ると雖も、極めて悲しむべし悲しむべし、十善の帝位の運、更に凡夫愚賤の思う所に非ず、而るに時儀に順わしめ給うに依るか、一旦仰せ合わせらると雖も、〓凡卑の下愚を以て、帝位を計り立つるの条、未曾有の事なり、我が朝は神国なり、異域の風に似ず、茲の天地開くより後、国常立尊以降、皆先主計り立てしめ給う、不慮の事に至りては、此の限りに非ず、光仁・光孝二代に至りては、群臣議定するか、然れども其の趣、偏に天下を安んぜんが為なり、今群議に非ず、異域蛮類の身を以て此の事を計り申すの条、宗廟の冥慮如何、尤も恐るべし恐るべし。またいわく、寛元三年二月十日云々、神事興行の事、祈年・祈年穀・月次祭已下、諸社の祭礼等、皆起行の儀有るべくば、先ず幣物・〓物・庭積等、今に於いては実無きなり、皆悉く尋ね沙汰有るべし、而るに件の事等、末代に臨みて治め難きか、式数を守るべくば、その物今
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『玉勝間』七の巻 みだれ世のあさましかりし事また、延文元年十月一日、今暁卯の剋、梁上卿禁中に推参す、その勢数十許輩、種々の狼藉に及ぶ。また、同年十一月一日、後に聞く、梁上卿博陸の第に乱入す、近日貴賤を撰ばずかくのごとしと見えたり。かえすがえすあさまし。梁上卿とは、から国に何とかや云いし人の、梁上の君子と云えりし事の有るをとりて云えるにて、ぬす人の事なり。
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『玉勝間』七の巻 みだれ世のあさましかりし事同書に、文和四年二月十一日、天晴る、今日、吉田神主兼豊、状を女中に進むるの次いで、当社追捕の事之を申す、およそ為す方無きか、この程は、道もあまりにあまりにろうぜきに候。また斎屋をも見捨てがたくて、参り候わず、去る三日、山のぐんぜい社頭へ乱入し候て、まさかりにて、四所の神殿をうちやぶり候て、神服神宝を追捕し、また御かまいしいしまで、追捕しつる程に、ともかくも申す計り候わで、火にも水にも入りたきまでに、なげき存じ候、よし田の御参りも、今ちと御延わたらせおわしまして、事のよう、いささかも御らんじしずめられ候御事にて候え、とても今は、物参の御沙汰候まじく候、あまりに心もとなく覚えさせおわしまして候、こまかにおおせ事給り候よし、御ひろう給り候、あなかしこ。これ兼豊の状なり。山のぐんぜいとは、この程比叡の山にあつまりいたる軍勢を云えり。尊き御社を、さばかりそこない奉りけむ、その世のもののふどもの、ひたぶる心は、いかなる禍つ日の心なりけん、あさましなども世のつねなり。また同じ書に同年七月廿六日、後に聞く、今夜窃盗頗る人勢を卒い、禁中の女房勾当内侍、並びに禁中管領宰相典侍已下の局に乱入し、悉く追捕す。台盤所の遣戸等、踏み破ると雖も、御所に入らず退散すと云々。末代の極み、悲しいかな。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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