玉勝間 / 一の巻 清水寺の敬月ほうしが歌の事
承久のみだれに、清水寺の敬月法師と云ひけるほうし、京の御方にて、官軍にくははり、宇治におもむきけるを、かたきにとらはれて、殺さるべかりけるに、歌をよみて、敵泰時に見せける。「勅なれば身をば捨ててきもののふの八十宇治川の瀨にはたたねど。かたき此歌にめでて、命ゆるして、遠流にぞしたりける。此事も同じ書に見ゆ。
書き下し
承久のみだれに、清水寺の敬月法師と云いけるほうし、京の御方にて、官軍にくわわり、宇治におもむきけるを、かたきにとらわれて、殺さるべかりけるに、歌をよみて、敵泰時に見せける。「勅なれば身をば捨ててきもののふの八十宇治川の瀬にはたたねど。かたきこの歌にめでて、命ゆるして、遠流にぞしたりける。この事も同じ書に見ゆ。
現代語訳
承久の乱のとき、清水寺の敬月法師という法師が、京の側について官軍に加わり、宇治に向かったところ、敵に捕らえられて殺されるはずであったが、歌を詠んで敵の泰時(北条泰時)に見せた。「勅命であるから身を捨てて来たのだ、武士たちが大勢いる宇治川の瀬に立って戦ったわけではないけれども」。敵はこの歌に感心して、命を許して遠流にしたのであった。このことも同じ書(吾妻鏡)に見えている。
解説
承久の乱で、歌の力によって命を救われた法師の話である。清水寺の敬月法師は後鳥羽院の側について宇治に向かい、捕らえられて斬られるところだった。そこで詠んだのが、勅命だから身を捨てて来たのだ、宇治川の瀬に立って武士として戦ったわけではないが、という一首である。「もののふの八十」から「宇治川」へ続く万葉以来の言い回しを踏まえ、勅命に従った者としての覚悟と、戦ってはいないという弁明を一首に込めている。北条泰時はこれに感じ入り、死罪を流罪に減じた。宣長は、朝廷の側に立った者を武家の総大将が歌に免じて許したという話を、胸に留めたのであろう。言葉が人の心を動かし、命さえ左右しうることを伝える一段である。
関連する章句
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