玉勝間 / 一の巻 平戸記
平戶記にいはく、仁治三年正月十六日云云、凡空位及數日、偏是關東所爲也、十七日云云、阿波院宮、依武士緣、一定御出立之由、世以風聞、前内府(定通公)妻、使緣者、泰時重時等姉妹也、如此之間、私差遣使者於關東、有、慇懃之旨云、十九日云云、巷說云、關東飛脚、此申剋許著武家云、以此由且申一條殿云、依是京中物念云、抑此事、關東計申之條、雖知末世之至、極可悲可悲、十善帝位之運、更非凡夫愚賤之所思、而依令順時儀給歟、一旦雖被仰合、〓以凡卑之下愚、計立帝位之條、未曾有事也、我朝者神國也、不似異域之風、自茲天地開之後、國常立尊以降、皆先主令計立給、至不慮之事者、非此限、至光仁光孝二代、群臣議定歟、然而其趣、偏爲安天下也、今非群議、以異域蠻類之身計申此事之條、宗廟之冥慮如何、尤可恐可恐またいはく、寛元三年二月十日云云、神事興行事、祈年祈年穀月次祭已下、諸社祭禮等、皆可有起行之儀者、先幣物〓物庭に積等、於今者無實也、皆悉可有尋沙汰、而件事等、臨末代難治數、可守式數者、其物今。
新字:平戸記にいはく、仁治三年正月十六日云云、凡空位及数日、偏是関東所為也、十七日云云、阿波院宮、依武士縁、一定御出立之由、世以風聞、前内府(定通公)妻、使縁者、泰時重時等姉妹也、如此之間、私差遣使者於関東、有、慇懃之旨云、十九日云云、巷説云、関東飛脚、此申剋許著武家云、以此由且申一条殿云、依是京中物念云、抑此事、関東計申之条、雖知末世之至、極可悲可悲、十善帝位之運、更非凡夫愚賤之所思、而依令順時儀給歟、一旦雖被仰合、〓以凡卑之下愚、計立帝位之条、未曽有事也、我朝者神国也、不似異域之風、自茲天地開之後、国常立尊以降、皆先主令計立給、至不慮之事者、非此限、至光仁光孝二代、群臣議定歟、然而其趣、偏為安天下也、今非群議、以異域蠻類之身計申此事之条、宗廟之冥慮如何、尤可恐可恐またいはく、寛元三年二月十日云云、神事興行事、祈年祈年穀月次祭已下、諸社祭礼等、皆可有起行之儀者、先幣物〓物庭に積等、於今者無実也、皆悉可有尋沙汰、而件事等、臨末代難治数、可守式数者、其物今。
書き下し
平戸記にいわく、仁治三年正月十六日云々、凡そ空位数日に及ぶ、偏に是れ関東の所為なり、十七日云々、阿波院の宮、武士の縁に依りて、一定御出立の由、世以て風聞す、前内府(定通公)の妻、使縁者、泰時・重時等の姉妹なり、此の如きの間、私に使者を関東に差し遣わし、慇懃の旨有りと云う、十九日云々、巷説に云う、関東の飛脚、此の申の剋許りに武家に著くと云う、此の由を以て且つ一条殿に申すと云う、是に依りて京中物念と云う、抑も此の事、関東計らい申すの条、末世の至りと知ると雖も、極めて悲しむべし悲しむべし、十善の帝位の運、更に凡夫愚賤の思う所に非ず、而るに時儀に順わしめ給うに依るか、一旦仰せ合わせらると雖も、〓凡卑の下愚を以て、帝位を計り立つるの条、未曾有の事なり、我が朝は神国なり、異域の風に似ず、茲の天地開くより後、国常立尊以降、皆先主計り立てしめ給う、不慮の事に至りては、此の限りに非ず、光仁・光孝二代に至りては、群臣議定するか、然れども其の趣、偏に天下を安んぜんが為なり、今群議に非ず、異域蛮類の身を以て此の事を計り申すの条、宗廟の冥慮如何、尤も恐るべし恐るべし。またいわく、寛元三年二月十日云々、神事興行の事、祈年・祈年穀・月次祭已下、諸社の祭礼等、皆起行の儀有るべくば、先ず幣物・〓物・庭積等、今に於いては実無きなり、皆悉く尋ね沙汰有るべし、而るに件の事等、末代に臨みて治め難きか、式数を守るべくば、その物今
現代語訳
平戸記(平経高の日記)にこうある。「仁治三年正月十六日。およそ天皇の位が空いて数日に及んでいる。ひとえに関東(鎌倉幕府)の仕業である。」「十七日。阿波院(土御門院)の宮(邦仁王)が武士との縁によって必ずお立ちになる、と世に噂されている。前内大臣(土御門定通公)の妻は、泰時・重時らの姉妹である。こうした間柄なので、ひそかに使者を関東に遣わして、ねんごろに頼み込んだという。」「十九日。巷の噂では、関東の飛脚が今日の申の刻ごろ武家(六波羅)に着いたという。このことをまず一条殿に申したという。これによって京中は騒然としているという。そもそもこのことを関東が取り計らうのは、末世の極みとは知りながら、ひどく悲しいことだ、悲しいことだ。十善の帝位の運は、凡夫や愚かな卑しい者の思い及ぶところではまったくない。それなのに時勢に従われたためであろうか。一度は相談を受けられたとしても、凡俗卑賤の愚か者が帝位を取り計らい立てるのは、前代未聞のことである。わが国は神国であり、異国の風とは似ていない。天地が開けて以来、国常立尊より後、みな先の君が後継を計り立てられた。思いがけない事態については、この限りではない。光仁・光孝の二代は、群臣が議定したのであろうか。しかしその趣旨はひとえに天下を安んずるためであった。今は群臣の議でもなく、異域の蛮族のような身で(武士が)このことを取り計らうのは、宗廟(皇祖の神々)のお心はいかがであろうか。まことに恐るべきことだ、恐るべきことだ。」またこうある。「寛元三年二月十日。神事の興行のこと。祈年祭・祈年穀奉幣・月次祭以下、諸社の祭礼などは、みな再び行う儀があるべきなら、まず幣物・供物・庭積などは、今では実質がない。みなことごとく尋ねて処置すべきである。しかしこれらのことは末代になって治めがたいのであろうか。式の定める数を守ろうとすれば、その物は今
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 平戸記は、多く以て実無きなり、仍て文治の意見に、光長卿議定して言う、実無き物等、其の代物を定めらるべし、新式を立てらるべきかと云う、此の議然るべきの由沙汰有り、記録所に於いて之を定めらる、然れども終に施行無し、建暦の末・建保の初め、また此の沙汰に及ぶ、已に其の奉行等の人数を定めらると雖も、終にまた施行無し、近くは仁治に此の沙汰あり、子細前に同じと云々、封有るの神事、今に於いては封戸実無しと云々、またいわく、同年三月八日、小除目を行わる、中務丞〓原行真云々、中務丞の名字(行真)は、後白河院の御法名なり、職事に云う、年如何と云う、上卿・執筆等存知せざるか、また執柄御覚悟無きか、不審不審、後に聞く、数日を経て此の沙汰出で来たり、追って改めらると云う。
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『玉勝間』六の巻 修明門院に強盗おし入し事同じ仁治元年十二月一日の記に云わく。一夜(その日を聞かず)群盗修明門院に推参し、女房等皆悉くその殃に過う、結句仙院を剥ぎ奉る、云云と云える事見えたり。そのかみ北条の泰時が、政とりおこないける程にて、天の下よく治まりたりと云えるに、なおかくやんごとなき御許に、強盗のおしいり参りて、なやまし奉りしは、いともいともかしこく、云わんかた無きまがこと、今の御代のめでたきに思いくらぶれば、及ばざりし事、こよなしかし。ついでに云う、結句と云う詞、昔は、はてにはと云う意につかえるを、今の世に、かえりてと云うこころに使うは、いたく移れる物なり。
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『玉勝間』一の巻 順徳天皇の御事同記に云う、同年十月六日、早旦或る者来たり告げて云う、佐渡院去月十二日崩逝すと云う、去夜飛脚到来す、八日、遠所の御使、今日到着すと云う、十三日御喪礼の事有りと云う、十日云々、彼の御悩、太だ大事に非ずと云う、只都て供御を聞こしめさず数日を渉り、九月九日、御命を終うべきの由、兼ねて御祈請有りと云う、人之を知らず、追って其の事を案じ得と云う、而るに件の日なお叶わず、十二日に及ぶなり、御帰京の事、思し食し絶ゆるの故と云う、之に就きて存命太だ益無きの由、叡慮有りと云う、焼石を焼きて、偸かに御蚊触に宛てしめ給うの上、人之を知らざるか、二箇日此の如きの間、小物御増し、次第に御身躰〓弱ならしめ給う、両左衛門大夫康光・盛実、御臨終已前、出家して法衣を着し、御前に祇候し、相互に高声念仏を唱えしめ給い、眠るが如く御気絶ゆと云う、女房右衛門督・別当局已下、八人出家す、十三日御喪礼、兼ねて皆仰せ置かると云う、十一月一日、今日佐渡院の御中陰已に満つ、四十九日なり、遠所に於いて御仏事無し、京都また前に同じ、御骨入洛の後、行わるべしと云う、是れ御遺誡なり、然れども其の事を待つべきに非ず、懇志の余り、去月廿二日より始めて、万万遍の念仏を修す、(家中の輩結番し、其の外勧化の人、昼夜之を修す、其の人数已に多し、然れどもなお彼の数に満たず(仍てなお百日に到るまで修すべきなり、)未だ数に満たずと雖も今日且つ結願すべし、また仏経を供養し奉るべし、御仏、阿弥陀如来の像を図絵するなり、(裏に宸筆を押す、件の宸筆は、当初御在位の時の、)経は妙華経一部、之を摺写す、件の料紙は、遠所の後、女房の奉書已下、取り具して反古を漉き、色紙に之を用う、云々。此の上紺紙金字の阿弥陀経一巻、別に之を供養す、件の経の料紙、また宸筆なり、なお其の字を見奉らんが為に、浅く色に之を染め、字方を以て裏と為す、去る八月最後の御音信、奥に続く枚、日来手自ら之を書写するなり。
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『玉勝間』一の巻 四条天皇御諡のさだ同記に云う、仁治三年正月十九日、先帝御諡号の事、群臣議定す、或いは四条院と申し、或いは後六条院と申し、或いは五条院と申し、或いは後鳥羽院と申す、云々、四条は、御喪所を右大将の亭(三条西洞院)に移さるべし、四町の内なり、其の寄せ有るべきかと云う、
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『神皇正統記』巻五 第八十六代 四条院第八十六代、四条院。諱は秀仁、後堀河の太子。御母藻壁門院、藤原の竴子、摂政左大臣道家女也。壬辰の年即位、癸巳に改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経も此大臣の胤子なれば、文武一にて権勢おはしけるとぞ。天下を治給こと十年。俄に世をはやくし給。十二歳おましましき。
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