玉勝間 / 七の巻 みだれ世のあさましかりし事
また、延文元年十月一日、今曉卯剋、梁上卿推參禁中其勢數十許輩、及種種狼籍。また、同年十一月一日、後聞、梁上卿亂入博陸第、近日不撰貴賤如此と見えたり。かへすがへすあさまし。梁上卿とは、から國に何とかや云ひし人の、梁上ノ君子と云へりし事の有るをとりて云へるにて、ぬす人の事なり。
新字:また、延文元年十月一日、今暁卯剋、梁上卿推参禁中其勢数十許輩、及種種狼籍。また、同年十一月一日、後聞、梁上卿乱入博陸第、近日不撰貴賤如此と見えたり。かへすがへすあさまし。梁上卿とは、から国に何とかや云ひし人の、梁上ノ君子と云へりし事の有るをとりて云へるにて、ぬす人の事なり。
書き下し
また、延文元年十月一日、今暁卯の剋、梁上卿禁中に推参す、その勢数十許輩、種々の狼藉に及ぶ。また、同年十一月一日、後に聞く、梁上卿博陸の第に乱入す、近日貴賤を撰ばずかくのごとしと見えたり。かえすがえすあさまし。梁上卿とは、から国に何とかや云いし人の、梁上の君子と云えりし事の有るをとりて云えるにて、ぬす人の事なり。
現代語訳
また、「延文元年十月一日、今暁の卯の刻(明け方六時ごろ)、梁上卿が禁中に押し入った。その勢は数十人ばかりで、さまざまな狼藉に及んだ」、また「同年十一月一日、後で聞いたところでは、梁上卿が関白の邸に乱入したという。近ごろは身分の貴賤を選ばずこのようである」と見える。かえすがえす嘆かわしい。「梁上卿」とは、中国で何とかいう人が「梁上の君子」と言ったことがあるのを取って言ったもので、盗人のことである。
解説
前の段に続き、宮中や関白邸にまで盗賊が押し入った記事を書き抜いている。日記の筆者は盗人を「梁上卿」と呼ぶ。後漢の陳寔が、梁の上に潜む盗人を「梁上の君子」と呼んで諭した故事を踏まえ、公卿の「卿」をかけて皮肉った公家らしい言い回しである。宣長は故事の人名を「何とかや云ひし人」とぼかしているが、漢籍の細部にこだわらない態度も彼らしい。数十人で禁中に押し入り、関白の屋敷をも襲うという事態に、「かへすがへすあさまし」と重ねて嘆く。前段の神社の略奪と合わせ、南北朝の京がいかに荒れていたかを、日付の入った一次記録で示したのである。乱世の実相は、後世の軍記物語よりも、その日に書かれた日記の短い一行の方が鋭く伝えることがある。
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 みだれ世のあさましかりし事同書に、文和四年二月十一日、天晴る、今日、吉田神主兼豊、状を女中に進むるの次いで、当社追捕の事之を申す、およそ為す方無きか、この程は、道もあまりにあまりにろうぜきに候。また斎屋をも見捨てがたくて、参り候わず、去る三日、山のぐんぜい社頭へ乱入し候て、まさかりにて、四所の神殿をうちやぶり候て、神服神宝を追捕し、また御かまいしいしまで、追捕しつる程に、ともかくも申す計り候わで、火にも水にも入りたきまでに、なげき存じ候、よし田の御参りも、今ちと御延わたらせおわしまして、事のよう、いささかも御らんじしずめられ候御事にて候え、とても今は、物参の御沙汰候まじく候、あまりに心もとなく覚えさせおわしまして候、こまかにおおせ事給り候よし、御ひろう給り候、あなかしこ。これ兼豊の状なり。山のぐんぜいとは、この程比叡の山にあつまりいたる軍勢を云えり。尊き御社を、さばかりそこない奉りけむ、その世のもののふどもの、ひたぶる心は、いかなる禍つ日の心なりけん、あさましなども世のつねなり。また同じ書に同年七月廿六日、後に聞く、今夜窃盗頗る人勢を卒い、禁中の女房勾当内侍、並びに禁中管領宰相典侍已下の局に乱入し、悉く追捕す。台盤所の遣戸等、踏み破ると雖も、御所に入らず退散すと云々。末代の極み、悲しいかな。
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『玉勝間』六の巻 修明門院に強盗おし入し事同じ仁治元年十二月一日の記に云わく。一夜(その日を聞かず)群盗修明門院に推参し、女房等皆悉くその殃に過う、結句仙院を剥ぎ奉る、云云と云える事見えたり。そのかみ北条の泰時が、政とりおこないける程にて、天の下よく治まりたりと云えるに、なおかくやんごとなき御許に、強盗のおしいり参りて、なやまし奉りしは、いともいともかしこく、云わんかた無きまがこと、今の御代のめでたきに思いくらぶれば、及ばざりし事、こよなしかし。ついでに云う、結句と云う詞、昔は、はてにはと云う意につかえるを、今の世に、かえりてと云うこころに使うは、いたく移れる物なり。
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『玉勝間』七の巻 綾小路中将敦有朝臣の事同書に、観応三年十月十九日、夜に入りて、綾小路中将敦有朝臣来たる、計略術尽くるの間、近日濃州の所領に下向すと云々、諸人この式、不便の事かと見ゆ。はやくこの程よりして、天の下の乱れにて、かかる人々も、かく京の住まいなりがたかりしが有りしなり。これは応仁の乱れより、百十余年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、かく有りし。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記中御門の権大納言宣胤の卿記に曰く、文明十二年正月一日(壬午)、小朝拝・元三の御薬、乱中より今に至るまで十余年停止す。節会・諸社の祭・諸公事、悉く以て十余年停止す。また曰く、同十日、室町殿年始の参賀、毎年の式日なり、云々。摂家・清華、乱前は悉く車に乗るなり、今は悉く板輿なり、説くべからざるの為体、末世の至極、無力の者か。また曰く、二月廿一日、今日春日祭なり、乱中乱後、諸社の祭悉く停止す、然りと雖も此の祭に於いては、寺門として、上卿并びに諸司等に下行を致し、毎年両度、今に懈怠無し。また曰く、三月廿六日、今日県召除目の初夜なり、乱中一箇度(文明七)行わる、今度宰相中将殿の御昇進に依りて、武家として申し行わるる者なり、公卿・殿上人悉く少分の訪を付けらる、但し用脚未だ到らざるの間、各々半分たるべしと云々、関白五千疋(但し半減の数)、執筆二千疋、其の外公卿・殿上人各々三百疋(但し半分なり)、惣用三万疋と云々。いく疋と有るはみな銭なり。また曰く、同四月十五日、召しに依りて参内す、風雅集書き進ずべきの由、民部卿忠富・中将を以て仰せ下さる、御本・料紙(十六帖)之を下さる。また曰く、九月二日、参内す云々。唐鏡の校合有り。また、十月三日、今日禅閤参内し、江次第を談じ申さると云々。同十日、新関停廃の為、土一揆蜂起して通路を塞ぎ、北白川辺に集会し、関所を焼き払う、内裏修理料と号して、乱後七口所々に新関を立てらるるなり、武家自ら之を用うるの外、修理に於いては沙汰に及ばず、諸人の歎く所なり。また、十三日、参内す云々。同じく参会して河海抄を校合せらる。
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『玉勝間』七の巻 仁木頼景法師がみまかれる時の事同書に、同四年十月十二日、伝え聞く、仁木左京大夫頼景法師、今朝卒去すと云々。十三日云々、気止むと云々。十九日、今日、新院御楽の事有りと云々、云々、頼景法師卒去の間、取り敢えず音楽のごときは無益の旨、沙汰有り、禁裏は七箇日已後明日、御沙汰有るべしと云々、武家随分の重人なり。御沙汰然るべきか、仙洞はその沙汰に及ばざるか、ただしまた強いて難とすべからざるかと有り。この頃は、武家の執権と云いし人の卒去のおりも、かかる御沙汰の有りけるなりけり。
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