玉勝間 / 六の巻 和讃 漢讃
同じ平戶記に、寛元三年三月廿八日、花供の佛事のところに、此間誦今度新花讃、此讃三度許、念佛相交誦之、其後誦新五偈漢讃、次誦其和讃、是皆予制作之也、とあり。
新字:同じ平戸記に、寛元三年三月廿八日、花供の仏事のところに、此間誦今度新花讃、此讃三度許、念仏相交誦之、其後誦新五偈漢讃、次誦其和讃、是皆予制作之也、とあり。
書き下し
同じ平戸記に、寛元三年三月二十八日、花供の仏事のところに、この間今度の新たなる花讃を誦す、この讃三度ばかり、念仏相交えてこれを誦す、その後新たなる五偈の漢讃を誦す、次にその和讃を誦す、これ皆予これを制作するなり、とあり。
現代語訳
同じ平戸記の寛元三年三月二十八日、花供の仏事のところに、「この間、今度新しく作った花讃を唱えた。この讃を三度ほど、念仏を交えて唱えた。その後、新しい五偈の漢讃を唱え、次にその和讃を唱えた。これはみな私が作ったものである」とある。
解説
仏を讃える歌に漢語の漢讃と和語の和讃があり、公家が自らそれを作っていたことを示す短い一段である。平戸記の記主平経高は、寛元三年(1245)の花供の仏事で、新作の花讃、五偈の漢讃、そして和讃を唱え、これはみな自分の作だと記している。和讃は仏の教えや徳をやわらげた和語で歌うもので、親鸞の三帖和讃などが名高い。宣長は評を加えていないが、漢讃と和讃が並べて唱えられ、しかも一人の公家が両方を作っていたことは、漢と和の二つの言葉が当時の信仰の場でどう使い分けられていたかを示す。題に和讃と漢讃を並べたところに、宣長の関心が言葉の使い分けにあったことがうかがえる。
関連する章句
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