玉勝間 / 四の巻 仏の前のもり物のたとへ
寺寺の佛のまへに、盛物とて、立テ並ぶる物あり。みじかき柱のやうしたる物に、金銀五色の紙をおして、つつみ色どりたるを立てて、まんぢう或は落雁など云ふなる、造菓子を、衣の紋のやうに押しつけて、いただきにも、ことごとしき作り花などを挿したり。此物のさまを見るに、その色どりかざりも、菓子も、唯だ人のまうでて見る方にのみ有て、佛の方に向きたる所には、かざりも無く、くだ物をもつけざるは、すべて唯だ、詣る人の見る目をかざれるのみにて、佛にうるはしくして奉らむとの爲わざには有らざりけり。その中にも甚しきは、菓子もまことのには有らで、土或るは木などして作りたるさへ有るぞかし。されど是れは、さしも論ふにも足らぬ、はかなき事なるを、漢國の萬の事の、うるはしきやうなるも、もはら此ほとけの前の盛リ物の如くにて、まことの事にはあらず。唯だ世の人に尊ませむための、色どりかざりなるを、文質彬彬など云ひて、たけき事に思ひ云ふこそ、いとをこなれ。皇國の古、はたとへば清らかなる白木の折敷に、檜杉の葉などを折りしきて、新しき物をそなへたらむが如し。
新字:寺寺の仏のまへに、盛物とて、立テ並ぶる物あり。みじかき柱のやうしたる物に、金銀五色の紙をおして、つつみ色どりたるを立てて、まんぢう或は落雁など云ふなる、造菓子を、衣の紋のやうに押しつけて、いただきにも、ことごとしき作り花などを挿したり。此物のさまを見るに、その色どりかざりも、菓子も、唯だ人のまうでて見る方にのみ有て、仏の方に向きたる所には、かざりも無く、くだ物をもつけざるは、すべて唯だ、詣る人の見る目をかざれるのみにて、仏にうるはしくして奉らむとの為わざには有らざりけり。その中にも甚しきは、菓子もまことのには有らで、土或るは木などして作りたるさへ有るぞかし。されど是れは、さしも論ふにも足らぬ、はかなき事なるを、漢国の万の事の、うるはしきやうなるも、もはら此ほとけの前の盛リ物の如くにて、まことの事にはあらず。唯だ世の人に尊ませむための、色どりかざりなるを、文質彬彬など云ひて、たけき事に思ひ云ふこそ、いとをこなれ。皇国の古、はたとへば清らかなる白木の折敷に、檜杉の葉などを折りしきて、新しき物をそなへたらむが如し。
書き下し
寺々の仏のまえに、盛物とて、立て並ぶる物あり。みじかき柱のようしたる物に、金銀五色の紙をおして、つつみ色どりたるを立てて、まんじゅうあるいは落雁など云うなる、造菓子を、衣の紋のように押しつけて、いただきにも、ことごとしき作り花などを挿したり。この物のさまを見るに、その色どりかざりも、菓子も、ただ人のもうでて見る方にのみ有りて、仏の方に向きたる所には、かざりも無く、くだ物をもつけざるは、すべてただ、詣る人の見る目をかざれるのみにて、仏にうるわしくして奉らむとの為わざには有らざりけり。その中にも甚しきは、菓子もまことのには有らで、土あるいは木などして作りたるさえ有るぞかし。されどこれは、さしも論うにも足らぬ、はかなき事なるを、漢国の万の事の、うるわしきようなるも、もはらこの仏の前の盛り物の如くにて、まことの事にはあらず。ただ世の人に尊ませむための、色どりかざりなるを、文質彬彬など云いて、たけき事に思い云うこそ、いとおこなれ。皇国の古は、たとえば清らかなる白木の折敷に、檜・杉の葉などを折りしきて、新しき物をそなえたらむが如し。
現代語訳
寺々の仏の前に、盛物といって立て並べる物がある。短い柱のような物に金銀五色の紙を貼って包み彩ったものを立て、饅頭あるいは落雁などという作り菓子を着物の紋様のように押しつけ、てっぺんにも仰々しい造花などを挿してある。この物の様子を見ると、その彩りも飾りも菓子も、ただ人が参詣して見る側にだけあって、仏の方に向いた所には飾りもなく、菓子も付けていないのは、すべてただ参詣人の見る目を飾っているだけで、仏に美しく整えて供え奉ろうとしての仕業ではなかったのである。その中でもひどいものは、菓子も本物ではなく、土や木などで作ったものさえあるのだ。しかしこれは、それほど論じるにも足りない、つまらない事であるが、漢国の万事が立派そうに見えるのも、まったくこの仏の前の盛物のようなもので、本当のことではない。ただ世の人に尊ばせるための彩りと飾りであるのに、「文質彬彬(飾りと中身がほどよく調和している)」などと言って、立派なことのように思い言うのは、まことに愚かである。皇国の古は、たとえば清らかな白木の折敷に、檜や杉の葉などを折り敷いて、新しい物を供えたようなものである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 仏の前のもり物のたとへかのいみしくかざり立てたる盛り物と、うわべの見る目こそ有らめ、まことにはいづれか清くまさりたらむ。すべて皇国は、もとよりの質の美きが故に、古は、その質の美きにまかせて、虚文をかざる事無かりき。文をかざらざるが故に、質のうるわしきが損う事も無かりき。外国は、質悪きがゆえに、虚文をかりて、しいて美くせむとせし物なり。さてもろこしに、文質彬彬と云うを、善き事にすめれども、必ず文にはうつりやすく、質にはかえり難きならいなれば、彬彬は必ず久しくはたもちがたくして、ようように虚文にのみ成りもて行きて、質を失う基なり。されば質の美しからむには、そを守りて、虚文を加えざらむこそ、長く久しかるべき為わざには有りけれ。
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『玉勝間』四の巻 世の人かざりにはからるるたとひ皇国と外国とのようを、物にたとえて云わば、皇国の古は、顔よき人の、かたち衣服をもかざらず、ただ在りにて在るが如く、外国は、醜き女の、いみしく髪かおをつくり、びびしき衣服を着かざりたるが如くなるを、遠くて見る時は、まことのかたちの善き悪しきは、わかれずして、ただそのかざりつくろえるかたぞ、まさりて見ゆめるを、世の人、近くよりて、まことの美醜きを見ることを知らず、ただ遠目にのみ見て、外国のかざりをしも、うるわしと思うは、いかにぞや。すべて漢国などは、よろづの事、実は悪しきが故に、それをおおい隠さむとてこそ、さまざまにかざりつくるには有りけれ。
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひすべて何事も、なべての世の人の真心にさかいて、ことなるを善き事にするは、外国のならいのうつれるにて、心を作り飾れる物と知るべし。
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『玉勝間』十の巻 譬、と云ふものの事ただに云いては、ことゆきがたき心も、万の物のうえに譬えて云えば、ことも無くよく聞ゆる事、多く有るわざなり。さればこの譬えと云う事、神代より有りて、歌にも見え、今の世の人も、常にものすることなり。皇国のみにもあらず、戎の国々にも、古えより有りけるを、もろこし人は、すべて物の譬えをとる事、いと上手にて、言すくなくて、いとよく聞えて、げによく譬えたりとおぼゆる事の多かるを、仏の経どもに、殊に多く見えたるたとえは、多くは物遠くして、よくあたれりとも聞えぬ事をくだくだしく長々と云えるなど、いといと拙なし。仏と云える人の云える事も、かかるものにや。
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『玉勝間』三の巻 から人のおやのおもひに身をやつす事もろこしの国の、世世の物知り人どもの、親の喪に、身のいみしくやつれたるを、孝心ふかき事にして、しるしたるがあまたある中には、まことに心のかなしさは、いとさばかりも有らざりけむを、食物をいたくへらしなどして、痩せさらぼいて、ことさらに顔かたちをやつして、いみしげにうわべを見せたるが多かりげに見ゆるは、例のいといとうるさきわざなるを、いみしき事に褒めたるも又おこなり。失せにし親を、まことに思う心深くは、おのが身をも、さばかりやつすべき物かは、身のやつれに、病なども起りて、もしはからず、なくなりなどもしたらむには、孝ある子と云うべしやは、たとい然までには至らずとも、然かいみしくやつれたらむをば、苔の下にも、親はさこそ心ぐるしく思わめ、いかでかうれしとは見む。さる親の心をば思わで、唯だ世の人目をのみつくろいて、名をむさぼるは、何のよき事ならむ。すべて孝行も何わざも、世にけやけきふるまいをして、いみしき事に思わするは、かの国人のならいにぞ有りける。
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『玉勝間』七の巻 もろこしに無きこともろこしのまなびする人、彼の国に無き事の、御国に有るをば、文盲なる事と、おとしむるを、もろこしにも有る事とだに云えば、さてゆるすは、いかにぞや。もろこしには、すべて文盲なる事は、無き物とや心得たるらむ。彼の国の学びするともがらは、よろずにかしこげに、物は云えども、かかる愚かなる事も有りけり。
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