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玉勝間 / 六の巻 むかしの女御の位階

延喜天曆などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしへの妃夫人などのつらに當りて、いと貴かりしにあはせては、なほ位階はひきくぞ有けん。小野ノ宮ノ左大臣の御女の女御の、天曆元年にかくれ給へりし、四十九日の願文に、女御贈從四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粹に有り。

新字:延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしへの妃夫人などのつらに当りて、いと貴かりしにあはせては、なほ位階はひきくぞ有けん。小野ノ宮ノ左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給へりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。

書き下し

延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしえの妃夫人などのつらに当たりて、いと貴かりしにあわせては、なお位階はひきくぞ有りけん。小野の宮の左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給えりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。

現代語訳

延喜・天暦のころになると、女御と申すのは、皇后に次いで、古の妃・夫人などの列に当たって、たいそう貴い身分であったのに比べては、やはり位階は低かったのであろう。小野宮左大臣(藤原実頼)の御娘の女御が天暦元年にお亡くなりになった、その四十九日の願文に「女御贈従四位上藤原朝臣」と見えている。これらも本朝文粋にある。

解説

平安中期の女御の身分と位階の釣り合いについて、本朝文粋の願文から証拠を示した一段である。女御は本来、后妃の中では下位の呼び名だったが、延喜・天暦のころには皇后に次ぐ高い身分となり、女御から皇后に立つのが通例になった。ところが位階を見ると、藤原実頼の娘で村上天皇の女御であった人が亡くなったとき、贈られたのは従四位上にすぎない。宣長は、身分の重さと位階の高さが必ずしも一致しなかったことを、この一例から読み取っている。制度上の格付けと、実際に人々が感じる重みとは、ずれることがある。そのずれを法令の規定ではなく、一通の願文から拾い上げるところに、宣長の考証の細やかさがある。

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