玉勝間 / 五の巻 東宮の御息所 東宮の女御
又かの伊勢物語の東宮の女御を、眞名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云ふことは、此書の頃には、云ふべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云ひ消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古、とても、國史などのたぐひとは異にして、かやうの稱呼なども、是ただ當時世間に云ひならへるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古、は皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云ふは、日本紀の雄畧ノ御卷にこそ見えたれ、其後は聞えざりしを、仁明文德の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、をさをさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給ひて、いにしへの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古、とはかはれる事、かくの如くなれば、なずらへて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑ふべき。
新字:又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云ふことは、此書の頃には、云ふべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云ひ消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古、とても、国史などのたぐひとは異にして、かやうの称呼なども、是ただ当時世間に云ひならへるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古、は皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云ふは、日本紀の雄略ノ御巻にこそ見えたれ、其後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、をさをさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給ひて、いにしへの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古、とはかはれる事、かくの如くなれば、なずらへて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑ふべき。
書き下し
又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云うことは、この書の頃には、云うべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云い消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古えとても、国史などのたぐいとは異にして、かようの称呼なども、これただ当時世間に云いならえるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古えは皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云うは、日本紀の雄略の御巻にこそ見えたれ、その後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、おさおさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給いて、いにしえの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古えとはかわれる事、かくのごとくなれば、なずらえて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑うべき。
現代語訳
また、あの伊勢物語の「東宮の女御」を、真名本ではこれも「東宮の御息所」としていることから、「『東宮の女御』という言い方は、この書のころには言うはずとも思えない俗語である」と言って打ち消されたのも誤りである。そもそも歌集の詞書や物語の書などは、古であっても国史などの類とは違って、このような呼び名なども、ただ当時世間で言い慣わしていたままに記したことが多いので、それほど理屈で正すべきものではない。そもそも後宮の制度は、古は皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪であって、「女御」というのは日本書紀の雄略天皇の巻に見えるが、その後は聞こえなかった。それが仁明・文徳天皇の御代のころからは、妃・夫人などと申すことはほとんど聞こえず、ただ皇后の次は女御、その次は更衣となり、女御は親王や大臣の御娘がなられて昔の妃・夫人にあたり、更衣はおおよそ嬪にあたった。世が移るにつれて古と変わったことがこのようであるから、それになぞらえて、延喜のころに早くも東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申したであろうことを、どうして疑う必要があろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御然るを師も、この俗称にまどわれたりと見えて、東宮の御息所とは、皇太子の嫡妃を申すなり。然るを皇太子の母儀を申すと、人々思えるは、その証有りや、と云われたる、これかえりてひが事なり。東宮の御母を申すことは、右の古今集、即ちその証ならずや。又東宮の女御と申せるも、その御母女御と云うことなるを以て、御息所も、然ることを知るべし。又源氏物がたりに、一のみこの女御、東宮の女御など有るも、みなその御母なる、これらもその証なるを、かえりてこれらを、転々して俗語のままに書けるなりと云い、かの古今集をさえ疑いて、さは申すまじき事なりとて、いたく強いたる考えを、あげられたるは、いかにぞや。これかえりて、みずからかの後の世の俗称にまどわれたるものなり。古えに東宮の妃を、御息所と申せる証ありや。有る事無し。その体と思われたるは、六条の御息所なるを、これ又かのまどいの心得たがいなり。その故は、かの六条の御息所と申すは、前坊の妃なるよしにて申すにはあらず。前坊の姫御子を生み給いて、その御母なる故に、御息所とはせるなり。天皇の女御更衣などの、御子生み給えるを、然か申すと同じ事なるをや。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御古今集に、二条の后の、東宮のみやすん所と聞えける時云云、いせ物語に、昔、東宮の女御の御方の云云と有る。まず二条の后は、清和天皇の中宮なり。貞観八年に、女御となり給い、同十年に、貞明親王を生み奉り給い、同十一年に、その親王皇太子に立たせ給う。これ陽成天皇におわします。これよりして、元慶元年に、中宮となり給うまでのあいだ、女御にて、皇太子の御母にましますを以て、東宮の女御とも、東宮の御息所とも申せること、契沖が余材抄、勢語臆断などに云えるがごとし。東宮の御母女御、御母御息所と云うことなり。御息所と申す称は、女御にまれ更衣にまれ、皇子皇女を生み奉り給える人を申す称なり。その趣源氏物語などを見て知るべし。かの物語に、桐壺の更衣などをも光源氏の君を生み奉られたる後は、御息所と云えること有り。その外も皆然かなり。然るを後の世に至りて、これを誤りて、御息所と申すを、東宮の妃の御事と心得たるから、この古今集いせ物語なるをも、清和天皇の東宮にて、ましましける時の御息所なり、と云う注あるは、いみじきひが事なり。東宮の妃を御息所と申すは、いたく後の世の俗称にこそあれ、古えにはかつて無き事なり。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御もしこれをあるまじき事と云わば、御息所と云うも、ただ云いならわしの俗称にこそあれ、古えよりの正しき号にはあらざれば、御息所としるせるをも、ともにあるまじき事とすべし。まして東宮の妃を、然か申せる事は、古えのいずれの国史式令に見えたるぞや。すべて師のこの事の疑いの本を尋ぬれば、御息所とは、東宮の妃を申す、後の世の俗称にまどわれたるよりおこりて、その趣をたてとおさむとせらるるから、強い事もひがごとも出で来つるものぞかし。
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『玉勝間』六の巻 むかしの女御の位階延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしえの妃夫人などのつらに当たりて、いと貴かりしにあわせては、なお位階はひきくぞ有りけん。小野の宮の左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給えりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。
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『玉勝間』十三の巻 更衣同紀に承和九年正月丙申朔戊戌、天皇太上天皇及び、太皇太后宮に嵯峨院に朝覲す、云云、是の日、詔して従五位下秋篠朝臣康子に、正五位下、无位山田宿禰近子に、従五位上を授く、並びに太上天皇の更衣なり。と見ゆ。この更衣と云う物は、いずれの御代のころより有りそめけむ。物に見えたる事は、これ始めなり。そもそも後宮職員令には、妃二員、右四品以上。夫人三員、右三位以上。嬪四員、右五位以上。宮人と有るを、中昔よりこなたは、これらの号は絶えて、大かた妃夫人にあたる程なるをば、女御とし、嬪にあたる程なるをば、更衣とせらる。三代実録六の巻に光孝天皇の更衣と云うことも見え、また仁和三年には、勅す。更衣従五位上藤原朝臣元善を以て、女御と為す、中納言従三位山陰の女なりとも見えたり。
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『玉勝間』十三の巻 女御女御と云う班を確かに定められたるは、何れの御世の頃よりのことにか有りけむ。雄略天皇の御世の稚媛を、始めと云うは、ひがことなり。書紀のかの御巻に女御とあるは、ただ撰者の例の漢文にこそあれ、そのかみ実にこの号ありしにはあらず。すべてかの紀は、かかる文字につきて後の人の思いまどう事多きぞかし。そもそも女御と云うは、もと漢国にて、王の御す女をひろく云える目にて、一つ定まれる号にはあらず。皇朝にても、本は然なりしを、後に定まれるしなには成れるなり。かの雄略紀なるも、ただ御す女とし給えるよしなり。
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