玉勝間 / 五の巻 東宮の御息所 東宮の女御
然るを師も、此俗稱にまどはれたりと見えて、東宮の御息所とは、皇太子の嫡妃を申すなり。然るを皇太子の母儀を申すと、人人思へるは、其證有りや、と云はれたる、これかへりてひが事なり。東宮の御母を申すことは、右の古今集、即ち其證ならずや。又東宮の女御と申せるも、その御母女御と云ふことなるを以て、御息所も、然ることを知るべし。又源氏物がたりに、一のみこの女御、東宮の女御など有るも、みなその御母なる、これらもその證なるを、かへりてこれらを、轉轉して俗語のままに書るなりと云ひ、かの古今集をさへ疑ひて、さは申すまじき事なりとて、いたく强たる考へを、あげられたるは、いかにぞや。これかへりて、みづからかの後の世の俗稱にまどはれたるものなり。古、に東宮の妃を、御息所と申せる證ありや。有る事無し。その體と思はれたるは、六條の御息所なるを、これ又かのまどひの心得たがひなり。その故は、かの六條ノ御息所と申すは、前坊の妃なるよしにて申すにはあらず。前坊の姫御子を生給ひて、その御母なる故に、御息所とはせるなり。天皇の女御更衣などの、御子生給へるを、然か申すと同じ事なるをや。
新字:然るを師も、此俗称にまどはれたりと見えて、東宮の御息所とは、皇太子の嫡妃を申すなり。然るを皇太子の母儀を申すと、人人思へるは、其証有りや、と云はれたる、これかへりてひが事なり。東宮の御母を申すことは、右の古今集、即ち其証ならずや。又東宮の女御と申せるも、その御母女御と云ふことなるを以て、御息所も、然ることを知るべし。又源氏物がたりに、一のみこの女御、東宮の女御など有るも、みなその御母なる、これらもその証なるを、かへりてこれらを、転転して俗語のままに書るなりと云ひ、かの古今集をさへ疑ひて、さは申すまじき事なりとて、いたく強たる考へを、あげられたるは、いかにぞや。これかへりて、みづからかの後の世の俗称にまどはれたるものなり。古、に東宮の妃を、御息所と申せる証ありや。有る事無し。その体と思はれたるは、六条の御息所なるを、これ又かのまどひの心得たがひなり。その故は、かの六条ノ御息所と申すは、前坊の妃なるよしにて申すにはあらず。前坊の姫御子を生給ひて、その御母なる故に、御息所とはせるなり。天皇の女御更衣などの、御子生給へるを、然か申すと同じ事なるをや。
書き下し
然るを師も、この俗称にまどわれたりと見えて、東宮の御息所とは、皇太子の嫡妃を申すなり。然るを皇太子の母儀を申すと、人々思えるは、その証有りや、と云われたる、これかえりてひが事なり。東宮の御母を申すことは、右の古今集、即ちその証ならずや。又東宮の女御と申せるも、その御母女御と云うことなるを以て、御息所も、然ることを知るべし。又源氏物がたりに、一のみこの女御、東宮の女御など有るも、みなその御母なる、これらもその証なるを、かえりてこれらを、転々して俗語のままに書けるなりと云い、かの古今集をさえ疑いて、さは申すまじき事なりとて、いたく強いたる考えを、あげられたるは、いかにぞや。これかえりて、みずからかの後の世の俗称にまどわれたるものなり。古えに東宮の妃を、御息所と申せる証ありや。有る事無し。その体と思われたるは、六条の御息所なるを、これ又かのまどいの心得たがいなり。その故は、かの六条の御息所と申すは、前坊の妃なるよしにて申すにはあらず。前坊の姫御子を生み給いて、その御母なる故に、御息所とはせるなり。天皇の女御更衣などの、御子生み給えるを、然か申すと同じ事なるをや。
現代語訳
ところが師(賀茂真淵)も、この俗称に惑わされたと見えて、「東宮の御息所とは、皇太子の正妃を申すのである。それを皇太子の母君を申すのだと人々が思っているのは、その証拠があるのか」と言われたが、これはかえって誤りである。東宮の御母を申すことは、右の古今集がすなわちその証拠ではないか。また「東宮の女御」と申したのも、その御母である女御ということなのだから、御息所もそうであることを知るべきである。また源氏物語に「一の皇子の女御」「東宮の女御」などとあるのも、みなその御母であり、これらもその証拠なのに、かえってこれらを、次々に転じて俗語のままに書いたのだと言い、あの古今集さえ疑って、そうは申すはずのないことだとして、ひどく無理な考えを挙げられたのはどうしたことか。これはかえって、自分があの後の世の俗称に惑わされたものである。古に東宮の妃を御息所と申した証拠があるか。あるはずがない。その例と思われたのは六条の御息所だが、これもまたあの惑いによる思い違いである。そのわけは、あの六条の御息所と申すのは、前坊(亡くなった前の東宮)の妃であるという理由で申すのではない。前坊の姫宮をお生みになって、その御母であるから御息所としたのである。天皇の女御・更衣などで御子をお生みになった方をそう申すのと同じことではないか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御もしこれをあるまじき事と云わば、御息所と云うも、ただ云いならわしの俗称にこそあれ、古えよりの正しき号にはあらざれば、御息所としるせるをも、ともにあるまじき事とすべし。まして東宮の妃を、然か申せる事は、古えのいずれの国史式令に見えたるぞや。すべて師のこの事の疑いの本を尋ぬれば、御息所とは、東宮の妃を申す、後の世の俗称にまどわれたるよりおこりて、その趣をたてとおさむとせらるるから、強い事もひがごとも出で来つるものぞかし。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御古今集に、二条の后の、東宮のみやすん所と聞えける時云云、いせ物語に、昔、東宮の女御の御方の云云と有る。まず二条の后は、清和天皇の中宮なり。貞観八年に、女御となり給い、同十年に、貞明親王を生み奉り給い、同十一年に、その親王皇太子に立たせ給う。これ陽成天皇におわします。これよりして、元慶元年に、中宮となり給うまでのあいだ、女御にて、皇太子の御母にましますを以て、東宮の女御とも、東宮の御息所とも申せること、契沖が余材抄、勢語臆断などに云えるがごとし。東宮の御母女御、御母御息所と云うことなり。御息所と申す称は、女御にまれ更衣にまれ、皇子皇女を生み奉り給える人を申す称なり。その趣源氏物語などを見て知るべし。かの物語に、桐壺の更衣などをも光源氏の君を生み奉られたる後は、御息所と云えること有り。その外も皆然かなり。然るを後の世に至りて、これを誤りて、御息所と申すを、東宮の妃の御事と心得たるから、この古今集いせ物語なるをも、清和天皇の東宮にて、ましましける時の御息所なり、と云う注あるは、いみじきひが事なり。東宮の妃を御息所と申すは、いたく後の世の俗称にこそあれ、古えにはかつて無き事なり。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云うことは、この書の頃には、云うべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云い消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古えとても、国史などのたぐいとは異にして、かようの称呼なども、これただ当時世間に云いならえるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古えは皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云うは、日本紀の雄略の御巻にこそ見えたれ、その後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、おさおさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給いて、いにしえの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古えとはかわれる事、かくのごとくなれば、なずらえて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑うべき。
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『玉勝間』一の巻 宗尊親王の北の方を御息所と申せし事同じ書に、かまくらの宗尊の親王の北の方を、みな御息所と記せり、そのかみさぞ申しけむ。そもそも御息所とは、皇子皇女をうみ奉り給える女御・更衣などをこそ申しつれ、親王の北の方をしも申せりしは、いたく転り来ぬる称なりかし。また東宮の妃を御息所と申すことと心得たるも、後の世の事なり。
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『玉勝間』六の巻 むかしの女御の位階延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしえの妃夫人などのつらに当たりて、いと貴かりしにあわせては、なお位階はひきくぞ有りけん。小野の宮の左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給えりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。
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『玉勝間』四の巻 御と云ふ詞のつかひざまの一つ源氏物語に、仏の御かりょうびんがの声、御ひとつ腹、御まえわたり、宮の御侍従の乳母、仏の御同じ帳台、宮の御二条の北の方、など有るこれらの御ちょう詞、今の世の心にて思えば、仏のかりょうびんがの御こえ、ひとつ御はら、宮の侍従の御乳母、仏の同じ御帳台、宮の二条の御北の方、と云うべきに、置きどころかわりて聞こゆ、心得おくべし。御まえわたりも、御は、わたりへかかりて、前へはかからず。
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