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玉勝間 / 六の巻 神社を宗廟社稷と申す事

神ノ社を、後ノ世の人の、それは宗廟ぞ、それは社稷ぞなど、かしこげに云ふは、から國ことのわたくしごとなり。古、にすべて宗廟社稷と云へる事無し。書紀などにをりをり、其字は見えたれど、唯だ潤色の漢文にして、もとより神社を云へるには有らず。さる故に、くにいへなど訓り。くにいへとは、漢文の國家の訓をうつしたるなり。さてもろもろの神社を、廟とは申すまじきよしは、筑前ノ國の香椎廟のみ、古書どもに、とりわきて廟とは申して、こは神名帳に入らず、故有る事なるべし。これをおきては、豐前ノ國の大帶姬ノ廟ノ神社あり。これらのことのよしは、古事記傳三十の卷に云へり。考へ見べし。さるゆゑよしをもたどらで、神社を宗廟よ社稷よと申すは、皇國の古、の御定めをば捨てて、ひたふるにから國ことに從へるみだり事なり。すべて神の道を說くともがらの、斯くのみ萬づを、から國ごとに云ひなすなるは、法師のともがらの神をおのが佛のかたさまに、引入れむとかまふると、同じ事なるを、えさとらざるは、いかにまどへる心ぞや。

新字:神ノ社を、後ノ世の人の、それは宗廟ぞ、それは社稷ぞなど、かしこげに云ふは、から国ことのわたくしごとなり。古、にすべて宗廟社稷と云へる事無し。書紀などにをりをり、其字は見えたれど、唯だ潤色の漢文にして、もとより神社を云へるには有らず。さる故に、くにいへなど訓り。くにいへとは、漢文の国家の訓をうつしたるなり。さてもろもろの神社を、廟とは申すまじきよしは、筑前ノ国の香椎廟のみ、古書どもに、とりわきて廟とは申して、こは神名帳に入らず、故有る事なるべし。これをおきては、豊前ノ国の大帯姫ノ廟ノ神社あり。これらのことのよしは、古事記伝三十の巻に云へり。考へ見べし。さるゆゑよしをもたどらで、神社を宗廟よ社稷よと申すは、皇国の古、の御定めをば捨てて、ひたふるにから国ことに従へるみだり事なり。すべて神の道を説くともがらの、斯くのみ万づを、から国ごとに云ひなすなるは、法師のともがらの神をおのが仏のかたさまに、引入れむとかまふると、同じ事なるを、えさとらざるは、いかにまどへる心ぞや。

書き下し

神の社を、後の世の人の、それは宗廟ぞ、それは社稷ぞなど、かしこげに云うは、から国ごとのわたくしごとなり。古にすべて宗廟社稷と云える事無し。書紀などにおりおり、その字は見えたれど、ただ潤色の漢文にして、もとより神社を云えるには有らず。さる故に、くにいえなど訓めり。くにいえとは、漢文の国家の訓をうつしたるなり。さてもろもろの神社を、廟とは申すまじきよしは、筑前の国の香椎廟のみ、古書どもに、とりわきて廟とは申して、こは神名帳に入らず、故有る事なるべし。これをおきては、豊前の国の大帯姫の廟の神社あり。これらのことのよしは、古事記伝三十の巻に云えり。考え見べし。さるゆえよしをもたどらで、神社を宗廟よ社稷よと申すは、皇国の古の御定めをば捨てて、ひたぶるにから国ごとに従えるみだり事なり。すべて神の道を説くともがらの、かくのみ万ずを、から国ごとに云いなすなるは、法師のともがらの神をおのが仏のかたさまに、引き入れむとかまうると、同じ事なるを、えさとらざるは、いかにまどえる心ぞや。

現代語訳

神の社を、後の世の人が「それは宗廟だ」「それは社稷だ」などと賢しげに言うのは、唐土風の身勝手な言い方である。古にはおよそ宗廟・社稷ということはなかった。日本書紀などにときおりその字は見えるが、ただ文飾の漢文であって、もともと神社を言ったものではない。それゆえ「くにいえ」などと訓んでいる。「くにいえ」とは、漢文の「国家」の訓を移したものである。さて多くの神社を廟とは申し上げるべきでないわけは、筑前国の香椎廟だけが古書類でとりわけ廟と申し上げていて、これは神名帳に載っておらず、わけのあることであろう。これを除いては、豊前国に大帯姫廟神社がある。これらの事情は古事記伝の巻三十に述べた。考えて見るがよい。そうした由来もたどらずに神社を宗廟だ社稷だと申し上げるのは、皇国の古の定めを捨てて、ひたすら唐土風に従った乱りがわしいことである。およそ神の道を説く者たちが、このように何でも唐土風に言いなすのは、法師たちが神を自分の仏のほうへ引き入れようと企むのと同じことなのに、それを悟れないのは、何と迷った心であろうか。

解説

神社を宗廟や社稷と呼ぶ言い方を、漢意による誤りとして退けた一段である。宗廟は中国で天子の祖先を祀る廟、社稷は土地と五穀の神で、転じて国家を指す。儒学者や神道家の中には、伊勢神宮を宗廟と呼ぶなど、神社を中国の礼制の言葉で説明する者がいた。宣長は、書紀に見える字は文飾にすぎず、古の日本に宗廟社稷という考えはない、と言う。廟と呼ばれるのは神功皇后を祀る香椎廟など特別な例だけだとし、古事記伝に詳しく論じたと添える。神道を儒教の言葉で説く者を、神を仏に引き入れる僧と同じだと断じるのは、漢意と仏意の両方を退ける宣長の立場の表れである。借り物の言葉で自分の伝統を語ると、中身まで借り物になるという警告として読める。

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