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玉勝間 / 七の巻 神社の祭る神を知らまほしくする事

古き神社どもにはいかなる神を祭れるにか、知られぬぞ多かる。神名帳にも、すべてまつれる神の御名は、しるされず、ただ其社號のみを擧られたり。出雲風土記の、神社をしるせるやうも、同じ事なり。社號すなはち其神の御名なれば、さも有べき事にて、古、はさしも祭る神をば、しひては知らでも有けむ。然るを後の世には、必ず祭る神を知らでは、有るまじき事のごと心得て、知られぬをも、しひて知らむとするから、萬づにもとめて、或は社號につきて、神代のふみに、いささかも似よれる神ノ名あれば、おしあてに其神と定めたるたぐひ多ければ、其社に傳へたる說も、信がたきぞ多かる。そもそも神は、八百萬の神など申シて、天にも地にも、其數限り無くおはします事なれば、天の下の社社には、其中のいづれの神を祭れるも、知るべからぬぞ多かるべき。神代紀などに出たる神は、その千萬の中の一つにもたらざンめるを、必〓其中にて、其神と定めむとするは、八百萬の神の御名は、神代紀に、ことごとく出たりと思ふにや。古書に御名の出ざる神の多かる事を、思ひわきまへざるは、いかにぞや。

新字:古き神社どもにはいかなる神を祭れるにか、知られぬぞ多かる。神名帳にも、すべてまつれる神の御名は、しるされず、ただ其社号のみを挙られたり。出雲風土記の、神社をしるせるやうも、同じ事なり。社号すなはち其神の御名なれば、さも有べき事にて、古、はさしも祭る神をば、しひては知らでも有けむ。然るを後の世には、必ず祭る神を知らでは、有るまじき事のごと心得て、知られぬをも、しひて知らむとするから、万づにもとめて、或は社号につきて、神代のふみに、いささかも似よれる神ノ名あれば、おしあてに其神と定めたるたぐひ多ければ、其社に伝へたる説も、信がたきぞ多かる。そもそも神は、八百万の神など申シて、天にも地にも、其数限り無くおはします事なれば、天の下の社社には、其中のいづれの神を祭れるも、知るべからぬぞ多かるべき。神代紀などに出たる神は、その千万の中の一つにもたらざンめるを、必〓其中にて、其神と定めむとするは、八百万の神の御名は、神代紀に、ことごとく出たりと思ふにや。古書に御名の出ざる神の多かる事を、思ひわきまへざるは、いかにぞや。

書き下し

古き神社どもにはいかなる神を祭れるにか、知られぬぞ多かる。神名帳にも、すべてまつれる神の御名は、しるされず、ただその社号のみを挙げられたり。出雲風土記の、神社をしるせるようも、同じ事なり。社号すなわちその神の御名なれば、さも有るべき事にて、古はさしも祭る神をば、しいては知らでも有りけむ。然るを後の世には、必ず祭る神を知らでは、有るまじき事のごと心得て、知られぬをも、しいて知らむとするから、万ずにもとめて、或いは社号につきて、神代のふみに、いささかも似よれる神の名あれば、おしあてにその神と定めたるたぐい多ければ、その社に伝えたる説も、信じがたきぞ多かる。そもそも神は、八百万の神など申して、天にも地にも、その数限り無くおわします事なれば、天の下の社々には、その中のいずれの神を祭れるも、知るべからぬぞ多かるべき。神代紀などに出でたる神は、その千万の中の一つにもたらざんめるを、必ずその中にて、その神と定めむとするは、八百万の神の御名は、神代紀に、ことごとく出でたりと思うにや。古書に御名の出でざる神の多かる事を、思いわきまえざるは、いかにぞや。

現代語訳

古い神社には、どのような神を祭っているのか分からないものが多い。神名帳(延喜式神名帳)にも、祭っている神の御名はまったく記されず、ただその社の名だけが挙げられている。出雲国風土記が神社を記すやり方も同じである。社の名がそのままその神の御名なのだから、それで当然なのであって、古くは祭る神を無理に知ろうとはしなかったのだろう。ところが後の世には、祭る神を必ず知らなければならないことのように思い込んで、分からないものまで無理に知ろうとするから、あれこれと探し求め、あるいは社の名について、神代の書物に少しでも似た神の名があれば、当て推量でその神だと定めた例が多い。だからその社に伝えている説も、信じがたいものが多いのである。そもそも神は八百万の神と申して、天にも地にも数限りなくいらっしゃるのだから、天下の社々がそのうちのどの神を祭っているのか、分からないものが多くて当然である。神代紀などに出てくる神は、その千万のうちの一つにも足らないだろうに、必ずその中から「この神だ」と定めようとするのは、八百万の神の御名が神代紀にすべて出ているとでも思っているのだろうか。古書に御名の出ていない神が多いことを弁えないのは、どうしたことか。

解説

神社の祭神を無理に定めようとする風潮への批判である。宣長は、延喜式の神名帳も出雲国風土記も社名しか記さないことを示し、社名がそのまま神の名であったのが古のあり方だと言う。後世の人は祭神が分からないことに耐えられず、社名に少し似た神を記紀から探して当てはめる。しかし神は八百万であり、神代紀に名の出る神はその千万分の一にも満たない。記紀に名があるから確か、名がないから不確か、という考え方そのものが、古書に記されたものが全てだという思い込みだと突いている。古事記を最も重んじた宣長が、古事記・書紀の外にも無数の神がいることを強調しているのが興味深い。知らないことを知らないままに置く勇気、分からない部分を手近な知識で埋めない慎みは、神社研究に限らず、あらゆる調べ物に通じる心得である。

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