玉勝間 / 六の巻 持仏堂
天武天皇の御代、十四年三月廿七日のみことのりに、諸國每家作佛舍、乃置佛像及經、以體拜供養と有り、書紀に見えたり。民の家家まで、持佛堂と云ふ物をかまへて佛をまつる事は、これよりや始まりけん。
新字:天武天皇の御代、十四年三月廿七日のみことのりに、諸国毎家作仏舎、乃置仏像及経、以体拝供養と有り、書紀に見えたり。民の家家まで、持仏堂と云ふ物をかまへて仏をまつる事は、これよりや始まりけん。
書き下し
天武天皇の御代、十四年三月二十七日のみことのりに、諸国の家毎に仏舎を作り、乃ち仏像及び経を置き、以て礼拝供養せよと有り、書紀に見えたり。民の家々まで、持仏堂と云う物をかまえて仏をまつる事は、これよりや始まりけん。
現代語訳
天武天皇の御代、十四年三月二十七日の詔に、「諸国の家ごとに仏舎を作り、仏像と経を置いて、礼拝供養せよ」とあることが、日本書紀に見えている。民の家々にまで持仏堂というものを構えて仏を祀ることは、これから始まったのであろうか。
解説
家ごとに仏を祀る習わしの起こりを、日本書紀の天武天皇十四年(685)の詔に求めた一段である。諸国の家ごとに仏舎を作り、仏像と経を置いて礼拝供養せよ、という詔は、後の仏壇の起源としてしばしば挙げられる。ここでいう家は、実際には役所や有力者の家を指すとする見方もあるが、宣長はこれを民の家々の持仏堂の始まりかと推している。仏教に厳しかった宣長だが、ここでは批判を加えず、習俗の起源を淡々と記している。自分の立場と異なるものでも、その来歴は事実として押さえておくという態度である。家に仏壇があるという当たり前の風景にも、国の命令から始まった歴史があるのかもしれない。
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 神社の位階の事同じく天武天皇の御巻に、軍政既に訖りて、将軍等、この三神の教言を挙げて、これを奏す。即ち勅して三神の品を登げ進めて以て祠るとみえたる。品とは、位階を云えるか。もし然らばこれ、神社に位を授け奉り給うことの、物に見えたる始めと云うべし。されどこれは、必ずしも位階にはあらで、ただその社の班列をあげ給えるにも有るべし。三神の教言の事は、件の文の上に出でたり。
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『玉勝間』八の巻 厨子仏の像をいれおく物を、厨子と云うこと、同じ記に、同じ年三月二十日、清涼殿の仁王八講、御装束をしるせる所に曰わく、五大力の仏殿を其の中に安置す(件の仏殿は厨子なり、蒔絵螺鈿の如し、云云)。
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『玉勝間』十三の巻 御仏名のはじまり同紀に承和五年十二月乙酉朔己亥、天皇清涼殿に於いて、仏名懺悔を修す。限るに三日三夜を以てす。律師静安、大法師願安実敏願定道昌等、遞いに導師と為る。内裏の仏名懺悔、此より始まると見ゆ。然るに一代要記に、淳和天皇の御世より始まると云い、公事根源に、宝亀五年よりと云えるなどは、ひがことなるべし。三代実録に貞観十八年六月廿一日丙寅、一万三千の仏像、二十九鋪、各広さ五幅、高さ一丈六尺、東海山陰南海、三道の諸国に分かち置く。国別に一鋪。是より先元興寺の僧賢護牒解を申す。先師故律師伝灯大法師位静安、承和年中、国家に勧め奉り、仏名を礼拝し、始めて内裏に行い、漸く人間に遍く、遂に諸国に詔して並びに勤修せしむ。云云、望み請うらくは、内裏及び諸国に分かち置き、御願懺悔の会に至る毎に、真容を展張し、前に於いてこれを修せんことを、その請う所を許す。
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