玉勝間 / 六の巻 神明鏡
例の法師のしわざとぞ見えたる。又二位ノ尼の、安德天皇を抱キ奉りて、海にしづまんとせられける時の歌とてのせたる、今ぞしる御裳濯川の流にて浪の底にもみやこありとは。
新字:例の法師のしわざとぞ見えたる。又二位ノ尼の、安徳天皇を抱キ奉りて、海にしづまんとせられける時の歌とてのせたる、今ぞしる御裳濯川の流にて浪の底にもみやこありとは。
書き下し
例の法師のしわざとぞ見えたる。また二位の尼の、安徳天皇を抱き奉りて、海にしずまんとせられける時の歌とてのせたる、今ぞしる御裳濯川の流れにて浪の底にもみやこありとは。
現代語訳
例によって法師のしわざと見える。また、二位の尼(平時子)が安徳天皇をお抱き申し上げて海に沈もうとなさったときの歌として載せているのは、「今こそ知った、御裳濯川の流れを汲む御身であるから、波の底にも都があるのだとは」という歌である。
解説
神明鏡の評の結びで、これも例の法師のしわざと見える、と断じたうえで、壇ノ浦で二位の尼が安徳天皇を抱いて入水するときに詠んだとされる歌を挙げる。御裳濯川は伊勢神宮の五十鈴川の別名で、皇統を象徴する。平家物語では、二位の尼が波の下にも都がございます、と幼帝をなぐさめて沈む場面が名高い。この歌はその言葉を歌の形にしたもので、後の人の作と考えられている。宣長はこれにも評を加えず、書名の下に並べるだけで、この書が史実と伝説を区別せずに記す性格を示している。心を動かす話ほど、誰がいつ作ったのかを確かめる目が必要になる。
関連する章句
-
『玉勝間』六の巻 安徳天皇の御事この主上をば、安徳天皇とつけ申したり。海にしずませ給いぬる事は、この王を、平相国いのり出しまいらすることは、安芸の厳島の明神の利生なり。このいつくしまと云うは、龍王のむすめなり、と申し伝えたり。この御神の、心ざし深きにこたえて、我が身の、この王となりて、生まれたりけるなり。さて果てには、海へかえりぬるなりとぞ、この子細知りたる人は申しける。この事は、まことならんと覚ゆ。この三件も、同じく愚管抄なり。この書、七巻有りて、神武天皇より、順徳天皇の御世、承久の乱れの前までの事どもを記して、ところどころに論あり。法師の書けるふみと見えて、その論みな例の仏さだなり。この安徳の帝の御事など、そのかみ例の僧のつくり出でて、云いなしたるが、ひろごりて、世にさるさだ有りしなるべし。平相国にいつくしま、いつく島に龍王のむすめ、りゅうおうの女に海にかえるとは、よくも事あいて、似つきたるものかな。「しもつけは木のうえにこそ成りにけれよしとも見えぬかけづかさかな」。これは平治に源の義朝の首、獄門にかけられたるを詠める、たわぶれ歌なり。しもつけは下野、かけづかさは兼官なり。
-
『玉勝間』六の巻 神明鏡神明鏡とて、神武天皇より、後花園の天皇の御代までの事どもをしるしたる、上下二まきのふみ有り。それに、神功皇后、戒定慧の箱を、摩白浜に埋み、松の枝を折り、逆にその上に立て給う、注とす。これに依りて箱崎と云うなり。皇后謡いて曰く、箱崎の千代の松原石畳くつれむ世まで君はましませ云云。或いは皇后を、安曇磯童思いかけ奉りける由聞こし召して、皇后御歌に云わく、衣だに二つもあらば赤裸山に一つはかけてまし物を云云。或いは云う、箱崎の松の上に、白幡四流、赤幡四流降り下る、長さ八丈なり。故に八幡と号す。桓武天皇、この御時、また万葉集の歌撰せらる。内舎人浜成承りて、三千余首撰び加え奉りたまうなり。高丘の親王も、春宮を取られさせ給いて弘法の御弟子と成りて、真如親王と申す。御歌に云わく、云うならく奈落の底に落ちぬれば刹利も戎駄もかわらざりけり。大師嘆き給いて、返歌に云わく、かくばかり達磨を知れる人なれば多駄迦多までも成りのぼりけり。承和六年、小野篁隠岐国へ流されけり。同七年沙汰有りて、一仰三仰不来人待書暗雨降恋乍寝、と云い遣わしけり。月夜には来ぬ人またるかき曇り雨だにふらばわびつつもねん、と読みたりければ、有り難く読みたりとて、御赦免あり。大かたこうようのみだりなる事どもをしるしたる書なり。
-
『玉勝間』十三の巻 宝劒の事その後日本武の尊東行の時、胆吹山のすそに、臥長一丈の大蛇となりて、この剣を取らむとせしかども、取り得ざりし故に、その後さまざまと謀をめぐらし、簸の川上の大蛇、安徳天皇となり、源平の乱をおこし、竜宮に返し取りぬ。今我が口に含める、即ち是宝剣なり。抱ける小児は、安徳天皇なり。平家の一門の人人も、ここにありとて、簾をまきあげて見せける。まことにその人人皆なみ居たり。今汝に、身にまとえる如法経の貴さに、本の質をそのままにて見ゆるなり。ただしこの剣は、尽未来際、日本に返す事あるべからずとて、大蛇は内にはい入りぬと奏しければ、法皇をはじめ奉り、月卿雲客、一同に奇特の思いをなし給えり。さてこそ宝剣は、失せ侍りと治定しけれと、これも同じ書に見えたり。件の事は、寺寺の縁起のたぐいにて、みな例の僧のともがらの、世の人をあざむく、むげの造り事なり。然るを万の事に、かくさまの仏法ざたのすじを云うことを好みて、かかる書にさえ、いみじげに記されたるは、この事のみにあらず、皇国のむかし人の常のくせなり。大かたかかるたぐいの事をしるせるは、いずれの書なるもみな同じ事なり、いとうるさし。
-
『玉勝間』一の巻 同卿二所荘を建礼門院に奉らるる事同書に云う、文治三年二月一日、二品、没官領の内二箇所を以て、建礼門院に避らるべきの由、其の沙汰有り、是れ摂津国真井・島屋両庄なり、元は八条前内府の知行と云々、彼の御幽栖を訪い申さるるに依るなり。
-
『神皇正統記』巻五 第八十一代 安徳天皇第八十一代、安徳天皇。諱は言仁、高倉第一の子。御母中宮平徳子、太政大臣清盛女他。庚子の年即位、辛丑に改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよいよおごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛其あとをつぎぬ。世の乱をもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇忍て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ申て西海に没落す。中みとせばかりありて、平氏ことごとく滅亡。清盛が後室従二位平時子と云し人此君をいだき奉りて、神璽をふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治給こと三年。八歳おましましき。遺詔等のさたなければ、天皇と称し申なり。
-
『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る