碧巌録 / 第六十五則
雪竇道。明鏡忽臨臺。當下分妍醜。這箇不曾動著。只消箇良久。如明鏡臨臺相似。萬象不能逃其形質。外道云。世尊大慈大悲。開我迷雲。令我得入。且道是什麼處。是外道入處。到這裏。須是箇箇自參自究。自悟自會始得。便於一切處。行住坐臥。不問高低。一時現成。更不移易一絲毫。纔作計較。有一絲毫道理。即礙塞殺人。更無入作分也。後面。頌世尊大慈大悲。開我迷雲。令我得入。當下忽然分妍醜。妍醜分兮迷雲開。慈門何處生塵埃。盡大地是世尊大慈大悲門戶。爾若透得。不消一揑。此亦是放開底門戶。不見世尊。於三七日中。思惟如是事。我寧不說法。疾入於涅槃。因思良馬窺鞭影。千里追風喚得回。追風之馬。見鞭影而便過千里。教回即回。雪竇意賞他道。若得俊流。方可一撥便轉。一喚便回。若喚得回。便鳴指三下。且道是點破。是撒沙。
新字:雪竇道。明鏡忽臨台。当下分妍醜。這箇不曽動著。只消箇良久。如明鏡臨台相似。万象不能逃其形質。外道云。世尊大慈大悲。開我迷雲。令我得入。且道是什麼処。是外道入処。到這裏。須是箇箇自参自究。自悟自会始得。便於一切処。行住坐臥。不問高低。一時現成。更不移易一糸毫。纔作計較。有一糸毫道理。即礙塞殺人。更無入作分也。後面。頌世尊大慈大悲。開我迷雲。令我得入。当下忽然分妍醜。妍醜分兮迷雲開。慈門何処生塵埃。尽大地是世尊大慈大悲門戸。爾若透得。不消一揑。此亦是放開底門戸。不見世尊。於三七日中。思惟如是事。我寧不説法。疾入於涅槃。因思良馬窺鞭影。千里追風喚得回。追風之馬。見鞭影而便過千里。教回即回。雪竇意賞他道。若得俊流。方可一撥便転。一喚便回。若喚得回。便鳴指三下。且道是点破。是撒沙。
書き下し
雪竇道ふ、「明鏡忽ち台に臨めば、当下に妍醜を分かつ」と。這箇は曾て動著せず、只だ箇の良久を消ふるのみ。明鏡の台に臨むが如く相似て、万象其の形質を逃るること能はず。外道云く、「世尊大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」と。且く道へ是れ什麼の処か是れ外道の入処。這裏に到りては、須らく是れ箇箇自ら参じ自ら究め、自ら悟り自ら会して始めて得べし。便ち一切処に於いて、行住坐臥、高低を問はず、一時に現成して、更に一絲毫をも移易せず。纔かに計較を作し、一絲毫の道理有れば、即ち人を礙塞殺して、更に入作の分無し。後面に世尊の「大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」を頌して、「当下忽然として妍醜を分かつ。妍醜分かれて迷雲開く、慈門何れの処にか塵埃を生ぜん」と。尽大地は是れ世尊大慈大悲の門戸なり。爾若し透得せば一揑をも消ひず。此れ亦是れ放開底の門戸なり。見ずや、世尊三七日の中に於いて是くの如き事を思惟す、「我寧ろ法を説かず、疾く涅槃に入らん」と。「因みに思ふ良馬の鞭影を窺ふことを、千里の追風喚べば回り得」。追風の馬は鞭影を見て便ち千里を過ぐ。回らしむれば即ち回る。雪竇の意は他を賞して道ふ、「若し俊流を得ば、方に一撥に便ち転じ、一喚に便ち回るべし」と。若し喚べば回り得ば、便ち指を鳴らすこと三下。且く道へ是れ点破か、是れ撒沙か。
現代語訳
雪竇は「明鏡がふと台に置かれれば、たちどころに美醜を分ける」と言う。これは一度も動いておらず、ただあの良久を用いただけである。明鏡が台に置かれたようなもので、万象はその姿形を逃れることができない。外道は「世尊は大慈大悲をもって、私の迷いの雲を開き、私を悟りに入らせてくださいました」と言った。さて言ってみよ、どこが外道の入ったところか。ここに至っては、一人一人が自ら参じ自ら究め、自ら悟り自ら会得してこそよい。そうすれば一切の場において、行住坐臥、高い低いを問わず、一度に現れて、一筋の毛ほども動かない。わずかでも計り比べ、一筋の毛ほどの理屈があれば、人をふさぎ殺してしまい、まったく入る余地がない。後半では世尊の「大慈大悲をもって、私の迷いの雲を開き、私を悟りに入らせてくださいました」を頌して、「たちどころにふと美醜を分ける。美醜が分かれて迷いの雲が開く。慈悲の門のどこに塵埃が生じようか」と言う。大地全体が世尊の大慈大悲の門である。あなたがもし透過できれば、ひとつまみの手間も要らない。これもまた開け放たれた門である。見なかったか、世尊は三七日、すなわち二十一日の間このような事を思惟した。「私はむしろ法を説かず、速やかに涅槃に入ろう」と。「そこで思う、良馬が鞭の影をうかがうことを。千里を風を追って走る馬も、呼べば戻ってくる」。風を追う馬は、鞭の影を見るやたちまち千里を過ぎる。戻れと言えばすぐ戻る。雪竇の意は外道を讃えて、「もし優れた者を得たなら、一押しですぐ転じ、一声ですぐ戻るはずだ」と言うのである。もし呼んで戻れるなら、すぐに指を三度鳴らす。さて言ってみよ、これは急所を突いたのか、砂を撒いて余計なことをしたのか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第六十五則翠巌真、胸を点じて拈じて云く、「六合九有、青黄赤白有りて一一交羅す」と。外道は四維陀典論を会し、自ら云く、「我は是れ一切智の人なり」と。在処に人を索めて論議す。他、問端を致して、釈迦老子の舌頭を坐断せんと要す。世尊は纖毫の気力をも費やさず、他便ち省し去りて、讃歎して云く、「世尊大慈大悲、我が迷雲を開き、我をして得入せしむ」と。且く道へ作麼生か是れ大慈大悲の処。世尊の隻眼は三世に通じ、外道の双眸は五天を貫く。溈山真如拈じて云く、「外道は至宝を懐蔵し、世尊親しく為に高く提ぐ。森羅顕現し、万象歴然たり」と。且く畢竟外道は箇の什麼をか悟る。狗を趁ひて牆に逼るが如く、極に至れば則ち路無き処、他須らく回り来たるべし、便乃ち活鱍鱍地なり。若し是非を計較することを一時に放下すれば、情尽き見除こりて、自然に徹底分明ならん。外道去りて後、阿難仏に問うて云く、「外道は何の所証有りてか得入すと言ふ」。仏云く、「世の良馬の鞭影を見て行くが如し」。後来諸方便ち道ふ、「又風に別調に吹かる」と。又云く、「龍頭蛇尾」と。什麼の処か是れ世尊の鞭影、什麼の処か是れ鞭影を見る処。雪竇云く、「邪正分かたず、過は鞭影に由る」と。真如云く、「阿難の金鐘再び撃ち、四衆共に聞く」と。是くの如くなりと雖然も、大いに二龍の珠を争ひて、他の智者の威獰を長ずるに似たり。雪竇頌して云く、
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『碧巌録』第二十八則山僧常に説く、若し是れ一句を添へば、甜蜜蜜地なるも、好好に観来たれば、正に是れ毒薬なり。若し是れ脊を劈いて便ち棒し、口に驀って便ち摑し、推し将ち出し去らば、方に始めて親切に人の為にす。「衲僧今古頭を競って走る」。到る処、是にも也た問ひ、不是にも也た問ひ、仏を問ひ祖を問ひ、向上を問ひ向下を問ふ。此の如くなりと雖然も、若し未だ這の田地に到らずんば、也た少くことを得ず。「明鏡台に当たって列像殊なり」、只だ一句を消ひて、明白を辨ずべし。古人道ふ、「万象及び森羅、一法の印する所なり」と。又道ふ、「森羅及び万象、総て箇中に在って円かなり」と。神秀大師云く、「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に勤めて払拭して、塵埃を惹かしむること勿れ」。大満云く、「他は只だ門外に在り」。雪竇恁麼に道ふ、且く道へ、門内に在るか門外に在るか。爾等諸人、各一面の古鏡有り、森羅万象、長短方円、一一中に於て顕現す。爾若し長短の処に去って会せば、卒に摸索不著ならん。所以に雪竇道ふ、「明鏡台に当たって列像殊なり」と。却って須らく是れ「一一南に面して北斗を看る」べし。既に是れ南に面す、什麼と為てか却って北斗を看る。若し恁麼に会得せば、方に百丈・南泉の相見の処を見ん。此の両句は百丈の挨拶の処を頌す。丈云く、「我は又是れ大善知識にあらず、争でか説と不説と有ることを知らん」。雪竇此に到って頌し得て、死水裏に落在す。人の錯って会せんことを恐れて、却って自ら提起して云く、即今目前「斗柄垂る」、爾更に什麼の処に去ってか討ねん。爾纔かに「鼻孔を拈得すれば口を失却し」、口を拈得すれば鼻孔を失却し了れり。
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『碧巌録』第六十五則機輪曾て未だ転ぜず、転ずれば必ず両頭に走る。明鏡忽ち台に臨めば、当下に妍醜を分かつ。妍醜分かれて迷雲開く、慈門何れの処にか塵埃を生ぜん。因みに思ふ良馬の鞭影を窺ふことを、千里の追風喚べば回り得。喚べば回り得、指を鳴らすこと三下。「機輪曾て未だ転ぜず、転ずれば必ず両頭に走る」。機は乃ち千聖の霊機、輪は是れ従本已来諸人の命脈なり。見ずや古人道ふ、「千聖の霊機は親しみ易からず、龍は龍子を生む、因循すること莫かれ。趙州奪ひ得たり連城の璧、秦王も相如も総に身を喪ふ」と。外道は却つて是れ把得住し作得主して、未だ嘗て動著せず。何が故ぞ。他道ふ、「有言を問はず、無言を問はず」と。豈に是れ全機の処にあらずや。世尊は会く風を看て帆を使ひ、病に応じて薬を与ふ。所以に良久して全機提起す。外道全体会し去りて、機輪便ち阿轆轆地に転ず。亦有に転向せず、亦無に転向せず、得失に落ちず、凡聖に拘はらず、二辺一時に坐断す。世尊纔かに良久すれば、他便ち礼拝す。如今の人多く無に落在し、然らざれば有に落在して、只管に有無の処に在りて両頭に走る。
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『碧巌録』第五則雪竇自然に他の古人を見る、只だ他の命脈上に去いて一劄を消して、他の与に頌出す。「牛頭没し馬頭回る」。且く道へ、箇の什麼をか説く。見得透する底は、早朝に粥を喫し、斎時に飯を喫するが如くに相似たり、只だ是れ尋常なり。雪竇慈悲、当頭に一鎚に撃砕し、一句に截断す。只だ是れ妨げず孤峻なることを。石火を撃つが如く閃電光に似たり。鋒鋩を露はさず、爾が湊泊の処無し。且く道へ、意根下に向つて摸索し得んや。此の両句一時に道ひ尽し了れり。雪竇第三句、却つて一線道を通じて、略ぼ些かの風規を露はす。早く是れ落草なり。第四句、直下に更に是れ落草なり。若し言上に言を生じ、句上に句を生じ、意上に意を生じて、解を作し会を作さば、唯だ老僧を帯累するのみにあらず、亦乃ち雪竇に辜負せん。古人の句は此の如くなりと雖も、意は此の如くならず。終に道理を作して人を繋縛せず。「曹渓鏡裏塵埃を絶す」。多少の人か道ふ、「静心便ち是れ鏡」と。且喜すらくは没交渉。只管に計較道理を作す、什麼の了期か有らん。這箇は是れ本分の説話、山僧敢へて本分に依らずんばあらず。「牛頭没し馬頭回る」、雪竇分明に説き了れり。自ら是れ人見ず。所以に雪竇此の如く郎当として頌して道ふ、「鼓を打つて看来れども君見ず」。癡人還た見るや。更に爾に向つて道ふ、「百花春至つて誰が為にか開く」。謂つべし戸牖を豁開して、爾が与に一時に八字に打開し了れりと。春来るに及んで、幽谷野澗、乃至人無き処にも、百花競ひ発く。爾且く道へ、更に誰が為にか開く。
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『碧巌録』第八十六則自ら照らして孤明を列ね、君が為に一線を通ず。花謝して樹に影無し、看る時誰か見ざる。見るも見ず、倒に牛に騎つて仏殿に入る。自ら照らして孤明を列ぬとは、自家の脚跟下に本と此の一段の光明有り、只だ是れ尋常用ゐ得て暗し。所以に雲門大師、爾が与に此の光明を羅列して爾が面前に在らしむ。且く作麼生か是れ諸人の光明。厨庫三門。此れは是れ雲門の孤明を列ぬる処なり。盤山道ふ、「心月孤り円かにして、光万像を呑む」と。這箇便ち是れ真常独露なり。然る後に君が与に一線を通ず。亦た人の厨庫三門の処に著在せんことを怕る。厨庫三門は則ち且く従却す。朝花も亦た謝し、樹も亦た影無く、日も又た落ち、月も又た暗く、尽乾坤大地、黒漫漫地なり。諸人還た見るや。看る時誰か見ざる。且く道へ、是れ誰か見ざる。這裏に到つて、明中に当たつて暗有り、暗中に明有り、皆な前後の歩の如く自ら見る可し。雪竇道ふ、「見るも見ず」と。「好事も無きには如かず」を頌す。合に見るべくして又た見ず、合に明らかなるべくして又た明らかならず。倒に牛に騎つて仏殿に入る、黒漆桶裏に入り去るなり。須らく是れ爾自ら牛に騎つて仏殿に入り、看て道ふべし、是れ箇の什麼の道理ぞと。
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『碧巌録』第六則雪竇の頌古、偏へに能く此の如し。当頭に金剛王宝剣を以て、揮ふこと一下し了つて、然る後に略ぼ些かの風規を露はす。然も此の如くなりと雖も、畢竟二解有ること無し。「一を去却し、七を拈得す」。人多く算数の会を作して道ふ、「一を去却するは是れ十五日已前の事」と。雪竇驀頭に両句の言語を下して印破し了り、却つて露出して人をして見せしむ。「一を去却し、七を拈得す」。切に忌む言句中に向つて活計を作すことを。何が故ぞ。胡餅に什麼の汁か有らん。人多く意識の中に落在す。須らく是れ語句未だ生ぜざる已前に向つて会取して始めて得べし。大用現前して、自然に見得せん。所以に釈迦老子成道の後、摩竭提国に於て、三七日の中、是の如き事を思惟す、「諸法寂滅の相、言を以て宣ぶべからず。我寧ろ法を説かずして、疾く涅槃に入らん」。這裏に到つて箇の口を開く処を覓むるも得ず。方便力を以ての故に、五比丘の為に説き已つて、三百六十会に至るまで、一代時教を説く。只だ是れ方便なり。所以に珍御の服を脱ぎ、弊垢の衣を著け、已むことを得ずして、第二義門中の浅近の処に向つて、諸子を誘引す。若し他をして向上全提せしめば、尽大地に一箇半箇も無からん。
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