玉勝間 / 六の巻 神明鏡
神明鏡とて、神武天皇より、後花園ノ天皇の御代までの事どもをしるしたる、上下二まきのふみ有り。それに、神功皇后、戒定慧ノ箱を、摩白濱に埋み、松の枝を折リ、逆に其上に立給ふ、注とす。依之箱崎と云フなり。皇后謠曰、箱崎の千代の松原石疊久津禮牟世まで君は座ませ云云。或は皇后を、安曇礒童奉思懸ける由聞ッ召て、皇后御歌に云〃、衣だに二ッもあらば赤裸山に一ッは懸てまし物を云云。或云、箱崎松上、白幡四流赤幡四流降下、長八丈也。故號八幡、桓武天皇、此御時、又萬葉集哥撰せらる。內舍人濱成承て、三千餘首奉撰加たまふなり。高丘ノ親王も、春宮を取られさせ給て弘法の御弟子と成ッ、眞如親王と申す。御哥ニ云ク、云フならく奈落の底に落ぬれば刹利も戎駄もかはらざりけり。大師嘆給て、返哥ニ云。、かくばかり達磨を知れる人なれば多駄迦多までも成のぼりけり。承和六年、小野篁隱岐國へ被流けり。同七年沙汰有て、一仰三仰不來人待書暗雨降戀乍寢、と云遣しけり。月夜には來ぬ人またるかき曇リ雨だにふらばわびつつもねん、と讀たりければ、難有讀たりとて、御赦免あり。大かたかうやうのみだりなる事どもをしるしたる書なり。
新字:神明鏡とて、神武天皇より、後花園ノ天皇の御代までの事どもをしるしたる、上下二まきのふみ有り。それに、神功皇后、戒定慧ノ箱を、摩白浜に埋み、松の枝を折リ、逆に其上に立給ふ、注とす。依之箱崎と云フなり。皇后謡曰、箱崎の千代の松原石畳久津礼牟世まで君は座ませ云云。或は皇后を、安曇礒童奉思懸ける由聞ッ召て、皇后御歌に云〃、衣だに二ッもあらば赤裸山に一ッは懸てまし物を云云。或云、箱崎松上、白幡四流赤幡四流降下、長八丈也。故号八幡、桓武天皇、此御時、又万葉集歌撰せらる。内舎人浜成承て、三千余首奉撰加たまふなり。高丘ノ親王も、春宮を取られさせ給て弘法の御弟子と成ッ、真如親王と申す。御歌ニ云ク、云フならく奈落の底に落ぬれば刹利も戎駄もかはらざりけり。大師嘆給て、返歌ニ云。、かくばかり達磨を知れる人なれば多駄迦多までも成のぼりけり。承和六年、小野篁隠岐国へ被流けり。同七年沙汰有て、一仰三仰不来人待書暗雨降恋乍寝、と云遣しけり。月夜には来ぬ人またるかき曇リ雨だにふらばわびつつもねん、と読たりければ、難有読たりとて、御赦免あり。大かたかうやうのみだりなる事どもをしるしたる書なり。
書き下し
神明鏡とて、神武天皇より、後花園の天皇の御代までの事どもをしるしたる、上下二まきのふみ有り。それに、神功皇后、戒定慧の箱を、摩白浜に埋み、松の枝を折り、逆にその上に立て給う、注とす。これに依りて箱崎と云うなり。皇后謡いて曰く、箱崎の千代の松原石畳くつれむ世まで君はましませ云云。或いは皇后を、安曇磯童思いかけ奉りける由聞こし召して、皇后御歌に云わく、衣だに二つもあらば赤裸山に一つはかけてまし物を云云。或いは云う、箱崎の松の上に、白幡四流、赤幡四流降り下る、長さ八丈なり。故に八幡と号す。桓武天皇、この御時、また万葉集の歌撰せらる。内舎人浜成承りて、三千余首撰び加え奉りたまうなり。高丘の親王も、春宮を取られさせ給いて弘法の御弟子と成りて、真如親王と申す。御歌に云わく、云うならく奈落の底に落ちぬれば刹利も戎駄もかわらざりけり。大師嘆き給いて、返歌に云わく、かくばかり達磨を知れる人なれば多駄迦多までも成りのぼりけり。承和六年、小野篁隠岐国へ流されけり。同七年沙汰有りて、一仰三仰不来人待書暗雨降恋乍寝、と云い遣わしけり。月夜には来ぬ人またるかき曇り雨だにふらばわびつつもねん、と読みたりければ、有り難く読みたりとて、御赦免あり。大かたこうようのみだりなる事どもをしるしたる書なり。
現代語訳
神明鏡といって、神武天皇から後花園天皇の御代までの事柄を記した、上下二巻の書物がある。それに、「神功皇后が戒定慧の箱を摩白浜に埋め、松の枝を折って、逆さにその上にお立てになり、目印とした。これによって箱崎というのである。皇后が歌って言うには、『箱崎の千代の松原の石畳が崩れる世まで、君はいらっしゃいませ』云々」とある。また「あるいは、皇后を安曇磯童が思い慕い申し上げたことをお聞きになって、皇后の御歌に『衣さえ二枚あったなら、赤裸の山に一枚は掛けてやったものを』云々」ともある。また「ある説では、箱崎の松の上に白旗四流、赤旗四流が降り下った。長さは八丈である。それゆえ八幡と号する」とある。「桓武天皇のこの御代に、また万葉集の歌が撰ばれた。内舎人浜成が命を承って、三千余首を撰び加え申し上げたのである」とある。「高丘親王も、皇太子の位を取られなさって弘法大師の御弟子となり、真如親王と申し上げる。御歌に『聞くところでは、奈落の底に落ちてしまえば、刹帝利(王族)も首陀羅(賤民)も変わらないのだった』。大師は感嘆なさって、返歌に『これほど仏法を知っている人であるから、如来にまで上り詰めたのだった』」とある。「承和六年、小野篁が隠岐国へ流された。同七年に沙汰があって、『一仰三仰不来人待書暗雨降恋乍寝』と書き送った。それを『月夜には来ぬ人待たるかき曇り雨だに降らばわびつつも寝ん(月夜には来ない人がつい待たれる。かき曇って雨でも降れば、わびしく思いながらも寝よう)』と読んだので、見事に読んだといって赦免された」とある。おおよそこのような、でたらめな事柄を記した書物である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 神明鏡例の法師のしわざとぞ見えたる。また二位の尼の、安徳天皇を抱き奉りて、海にしずまんとせられける時の歌とてのせたる、今ぞしる御裳濯川の流れにて浪の底にもみやこありとは。
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇其故にや行教和尚には弥陀三尊の形にてみえさせ給けり。光明袈裟の上にうつらせましましけるを頂戴して、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地を云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、大菩薩の応迹は昔よりあきらかなる証拠おはしますにや。或は又、「昔於霊鷲山説妙法華経。」とも、或は弥勒なりとも、大自在王菩薩なりとも託宣し給。中にも八正の幡をたてゝ、八方の衆生を済度し給本誓を、能々思入てつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝へましまししことの起は、さきにもしるし侍ぬ。又雄略天皇二十二年の冬十一月に、伊勢の神宮の新嘗のまつり、夜ふけてかたへの人々罷出て後、神主物忌等ばかり留たりしに、皇太神・豊受の太神、倭姫命にかゝりて託宣し給しに、「人はすなはち天下の神物なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷を以て先とし、冥はくはふるに正直を以て本とす。」とあり。同二十三年二月、かさねて託宣し給しに、「日月は四州をめぐり、六合を照すと云ども正直の頂を照すべし。」
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『玉勝間』二の巻 鏡ノ女王額田ノ王万葉二の巻の十のひらに、天皇の賜える御歌、御答えに奉れる歌、これ鏡女王もめされたるなり。この女王この時は、大和の国に居住まれたりと聞こえたれば、故郷の鏡の里には、これよりさき、もしは後にすまれたるなるべし。右の歌の次に、内大臣の聘い給えるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうえの事にても有るべし。天武紀に、十二年に、天皇の、この女王の病をとい給いし事、またその薨を記されたるも、天智天皇の妃なるが故なり。さて額田の王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり。万葉四の巻の十三のひらに、思近江天皇歌、これその証なり。その次に鏡女王の歌有り。これまたこの女王も、天智天皇に娶られたる証にて、妹の王と共に思い奉れるなり。さて天武天皇、皇太子におわしましし程より、額田の王に御心をかけられたりし事、同じく一の巻の十四のひらなる御歌にて知らる。その御歌に、人づまゆえにと詠み給えるは、天智天皇の妃なるが故なり、考の説はたがえり。さてこの御歌のこの御詞にても、額田王もはじめには、天智天皇のめしたりし事知るべし。かくて天智天皇かくれさせ給いて後に、天武天皇にはめされて、十市の皇女をうみ奉られしなり。
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『玉勝間』一の巻 わたくしに記せる史世におおやけの史にはあらで、私に御代御代の事を記せる書、これかれと多かるを、昔の皇国人は、仏を尊ばぬは一人も無かりしかば、斯かる書にさえ、ともすればようなき仏ざたのまじりて、うるさく、今見るには、かたわらいたき事多し。またさかしら心に、神代にはあやしき事のみ多くして、からめかぬをいといて、多くは神武天皇より始めてしるして、神代の程をばはぶけるは、から国のむねむねしき書に、さるたぐいの有るを、善き事と思いて、ならえる物なり。そもそも外国々は、その王のすじ、定まれる事無くして、世々に変われば、心にまかせて、いづれの代より記さむも難無きを、御国の皇統は、さらに外国の王のたぐいにはましまさず、天照大御神の天津日嗣にましまして、天地と共に、とこしえに伝わらせ給うを、その本の始めをはぶき捨てて、なからより記して善からめや。万づをから国にならうも、事によりては、心すべきわざぞかし。
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇異朝にも人の心まちまちなれば、異学の輩の云出せる事歟。後漢書よりぞ此国のことをばあらあらしるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比、おとゝの讒によりて、すでに追討せられしを、大臣の僕、真根子と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅せらる。大臣は忍て都にまうでゝ、とがなきよしを明められにき。上古神霊の主猶かゝるあやまちましまししかば、末代争かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おましましき。欽明天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後国菱形の池と云所にあらはれ給、「われは人皇十六代誉田の八幡丸なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹の号也。後に豊前の国宇佐の宮にしづまり給しかば、聖武天皇東大寺建立の後、巡礼し給べきよし託宣ありき。仍威儀をとゝのへてむかへ申さる。
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『神皇正統記』巻三 第三十代 欽明天皇群臣の諌によりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや。昔、仏在世に、天竺の月蓋長者、鋳たてまつりし弥陀三尊の金像を伝へてわたし奉りける、難波の堀江にすてられたりしを、善光と云者とり奉て、信濃の国に安置し申き。今の善光寺これ也。此御時八幡大菩薩始て垂迹しまします。天皇天下を治給こと三十二年。八十一歳おましましき。
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