玉勝間 / 六の巻 延久の御世に始めて記録所をおかれし事
延久の記錄所とて、はじめておかれたりけるは、諸國七道の所領の宣旨官符をなして、公田をかすむる事、一天四海の巨害なりと、きこしめしつめて有りけるが、即ち宇治殿の時、一の所の御領御領とのみ云ひて、庄園諸國に滿ちて、〓のつとめたへ難しなど云ふを、きこしめしもちたりけるにこそ、さて宣旨を下されて、諸人領知の庄園の文書を召されけるに、宇治殿へ仰せられたりける御返事に云云。別に宣旨を下されて、此記錄所へ文書ども召すことは、所大相國の領をのぞくと云ふ宣下ありて、中中つやつやと御さた無かりけり。此御さたをば、いみしき事かなとぞ、世の中に申シける。
新字:延久の記録所とて、はじめておかれたりけるは、諸国七道の所領の宣旨官符をなして、公田をかすむる事、一天四海の巨害なりと、きこしめしつめて有りけるが、即ち宇治殿の時、一の所の御領御領とのみ云ひて、庄園諸国に満ちて、〓のつとめたへ難しなど云ふを、きこしめしもちたりけるにこそ、さて宣旨を下されて、諸人領知の庄園の文書を召されけるに、宇治殿へ仰せられたりける御返事に云云。別に宣旨を下されて、此記録所へ文書ども召すことは、所大相国の領をのぞくと云ふ宣下ありて、中中つやつやと御さた無かりけり。此御さたをば、いみしき事かなとぞ、世の中に申シける。
書き下し
延久の記録所とて、はじめておかれたりけるは、諸国七道の所領の宣旨官符をなして、公田をかすむる事、一天四海の巨害なりと、きこしめしつめて有りけるが、即ち宇治殿の時、一の所の御領御領とのみ云いて、庄園諸国に満ちて、〓のつとめたえ難しなど云うを、きこしめしもちたりけるにこそ、さて宣旨を下されて、諸人領知の庄園の文書を召されけるに、宇治殿へ仰せられたりける御返事に云云。別に宣旨を下されて、この記録所へ文書ども召すことは、所大相国の領をのぞくと云う宣下ありて、中中つやつやと御さた無かりけり。この御さたをば、いみしき事かなとぞ、世の中に申しける。
現代語訳
延久の記録所といって初めて置かれたのは、諸国七道の所領が宣旨や官符をたてにして公田をかすめ取っていることは、天下の大きな害であると、(後三条天皇が)かねてお聞き及びになっていたからで、つまり宇治殿(藤原頼通)の時代に、「一の所(摂関家)の御領だ、御領だ」とばかり言って荘園が諸国に満ち、〓の務めが果たしがたい、などと言うのをお聞きとめになっていたからこそである。そこで宣旨を下されて、人々が領有する荘園の文書を提出させられたところ、宇治殿へ仰せ遣わされたことへのご返事には、云々。別に宣旨を下されて、この記録所へ文書を提出させることについては、前の太政大臣(頼通)の領地は除くという宣下があって、かえってまったくご沙汰がなかった。このご処置を、見事なことだと世間では申したのである。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇後三条院の御世こそ此つひえをきかせ給て、記録所をゝかれて国々の庄公の文書をめして、おほく停廃せられしかど、白河・鳥羽の御時より新立の地いよいよおほくなりて、国司のしり所百分が一になりぬ。後ざまには、国司任におもむくことさへなくて、其人にもあらぬ眼代をさして国ををさめしかば、いかでか乱国とならざらん。況や文治のはじめ、国に守護職を補し、庄園・郷保に地頭をおかれしよりこのかたは、さらに古のすがたと云ことなし。政道をおこなはるゝ道、ことごとくたえはてにき。たまたま一統の世にかへりぬれば、この度ぞふるき費をもあらためられぬべかりしかど、それまではあまさへのことなり。今は本所の領と云し所々さへ、みな勲功に混ぜられて、累家もほとほと其名ばかりになりぬるもあり。これみな功にほこれる輩、君をおとし奉るによりて、皇威もいとゞかろくなるかとみえたり。かゝれば其功なしといへども、ふるくより勢ある輩をなつけられんため、或は本領なりとてたまはるもあり、或は近境なりとてのぞむもあり。
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『玉勝間』六の巻 南殿の御階の桜橘庄無くは、いかにしてかは、おおやけわたくし候うべき。近代の上達部、おおく国を賜わり候うは、封戸の無きかする事なめりと思い候うに、召さるるこそ、ちから及ばぬことなれ云云。また云わく、近代となりて、こわき物のうえに、なおこわき物を着かためて、こしあて、こうぶりとどめ、えぼしとどめなど申して、ちからも及ばず、したてあいて候うなるに、しおしおくたくたとして、あさましげなる雑色一二人ばかりぐして云云。
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『玉勝間』十二の巻 勅旨田同じ記に、寛弘九年四月四日云云、左中弁談じて云う、昨日故院の御処分有り云云、中宮・東宮、勅旨田各百町、男女一品宮、八十町、御乳母等、廿町とあり。これによりて思えば、勅旨田とは、殊なる勅旨によりて賜う田を云うか。またこれは、もとより勅旨田と云うあるを、御処分にせられたる由にや。なお尋ぬべし。
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『玉勝間』六の巻 一条天皇かくれさせ給ひて後御手箱に在ける宸筆の物の事一条院うせさせ給いて後、御堂殿御遺物どものさだ有りけるに、御手箱の有りけるを、ひらき御覧じけるに、宸筆の宣命めかしき物を、書かせおわしましたりけるを、はじめに三光明らかならんと欲するに、重雲覆いて大精暗しとあそばされたりけるを、御覧じて、次さまを読ませたまわで、やがて巻きこめて、焼きあげられにけりとこそ。宇治殿は、隆国(宇治大納言)には語らせ給いけると、隆国は記して侍るなれ。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』五の巻 庄屋今の世田舎にて、村の長を庄屋と云う。文粋二の巻なる、延喜二年三月十三日の官符の文に、新たに庄家を立て、多く苛法を施す、と有り、類聚三代格にも出でたり。これその領主より、庄家と云うを立て置きて、その所の事を執せしなり。
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