史記 / 呂太后本紀
孝惠帝慈仁,知太后怒,自迎趙王霸上,與入宮,自挾與趙王起居飲食。太后欲殺之,不得閒。孝惠元年十二月,帝晨出射。趙王少,不能蚤起。太后聞其獨居,使人持酖飲之。犁明,孝惠還,趙王已死。於是乃徙淮陽王友為趙王。夏,詔賜酈侯父追謚為令武侯。
新字:孝恵帝慈仁,知太后怒,自迎趙王覇上,与入宮,自挟与趙王起居飲食。太后欲殺之,不得閒。孝恵元年十二月,帝晨出射。趙王少,不能蚤起。太后聞其独居,使人持酖飲之。犁明,孝恵還,趙王已死。於是乃徙淮陽王友為趙王。夏,詔賜酈侯父追謚為令武侯。
書き下し
孝恵帝慈仁にして、太后の怒りを知り、自ら趙王を霸上に迎へ、与に宮に入り、自ら挾みて趙王と起居飲食を与にす。太后之を殺さんと欲するも、間を得ず。孝恵の元年十二月、帝晨に出でて射す。趙王少くして、蚤く起くる能はず。太后其の独り居るを聞き、人をして酖を持ちて之に飲ましむ。犁明、孝恵還る、趙王已に死せり。是に於て乃ち淮陽王友を徙して趙王と為す。夏、詔して酈侯の父に賜ひて追謚して令武侯と為す。
現代語訳
孝恵帝は慈しみ深く思いやりのある人で、太后の怒りを知っていたので、自ら趙王を霸上まで出迎え、一緒に宮中に入り、自分のそばに置いて寝起きも飲食も趙王と一緒にした。太后は趙王を殺そうとしたが、すきがなかった。孝恵帝の元年(前194年)十二月、帝は早朝に弓の狩りに出かけた。趙王は幼くて早起きできなかった。太后は趙王が一人でいると聞き、人に毒酒を持たせて飲ませた。夜明けに孝恵帝が帰ってくると、趙王はすでに死んでいた。そこで淮陽王劉友を移して趙王とした。夏、詔を下して酈侯(呂台)の父に諡を追贈し、令武侯とした。
解説
呂后が戚夫人の子の趙王如意を毒殺する段です。心優しい孝恵帝は、母の殺意を知って異母弟を自ら出迎え、寝食をともにして守りました。しかしある冬の朝、帝が狩りに出たわずかな隙に、趙王は毒を盛られて死にます。孝恵帝の必死の庇護も、母の執念の前には及びませんでした。この直後、呂后は戚夫人の手足を切り目をくりぬいて「人彘」と呼ぶという残虐な仕打ちに及び、それを見せられた孝恵帝は衝撃のあまり政治への意欲を失ったと、本紀はこの直後に記しています。最後に呂后の兄に諡を追贈した一文は、呂氏一族の地位を高めていく始まりです。善意ある人がいても、権力を持つ者の暴走を止める仕組みがなければ、組織は守れないということを示しています。
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