中朝事実 / 中國章・宮殿の起こりと平安宮の制
伊弉諾尊・伊弉冊尊。降居磤馭廬島。化作八尋之殿。又化竪天柱。 謹按。是天神宮殿之始也。今其制不可言。八者四方四隅之數。天者人物之所法也。能詳其實。則萬世之規制又始于此也。 神武帝辛酉。於畝傍之橿原也。太立宮柱於底磐之根。峻峙搏風於高天之原。 一書曰。神武帝建都橿原。經營帝宅。仍令天富命。〔太玉命之孫。〕率手置帆負彥狹知二神之孫。以齋斧齋鉏始採山材。構立正殿。所謂底都磐根宮柱〔布都之利〕立高天乃原搏風高之排皇孫命乃美豆乃御殿造奉仕也。故其裔今在紀伊國名草郡御木麁香二鄕。〔採材齋部所居。謂之御木。造殿齋部所居。謂之麁香。〕 謹按。是人皇宮殿之始也。此時去荒濛之世未遠。唯構正殿。以象神代之天柱。始萬世之洪基也。凡宮者室也。殿者堂之高大。屋之嚴正也。人必有居。有居則未嘗無宮殿。況人君乎。況帝居乎。既有宮殿。則不無制度。故經始之營。上正天時以象文明。下隨水土以量豐約。中考百世以模聖賢。匪樸匪斷。去泰去甚。折中以儀形當時。垂示萬代。是乃天神天柱之實乎。蓋中州代代之經營。專簡樸。而盡力於溝洫。唯有大極殿・大安殿之名。是乃宮殿也。〔大極殿以臨朝。大安殿以宴群臣。是宮與殿也。〕桓武帝遷都於平安城。牢籠先王。鑒察異域。大張規模。造新門。營新宮。名其門。題金榜。〔釋弘法。橘逸勢。野道風。藤行成。書其字。〕名其殿以嘉言。前殿曰紫宸。其制肖外朝之明堂。乃饗萬國朝諸侯之所〔秦漢曰前殿。周曰明堂。路寢。以帝居象天之紫宮。〕也。又曰南殿。天子負扆南嚮以聽政之義也。中殿曰清涼。常宸居所。又曰御殿。平生宴遊之所也。後殿曰貞觀。乃后宮也。此外宮殿・堂樓・院閣。丹墀靑瑣。金鋪玉屝〔音俟。砌也。〕井欄綺窓。無不盡善盡美。圖以河洛賢聖。而法大舜視古人之象。像以乾坤儀形。而守聖皇立宮柱之太。嚴九重之深邃。披九條之廣路。十二之通門迭洞。十七之寶殿珠聯。以宸儀仰彌高。法座則彌正。彼如事固陋與愛紛奢。不可同日而語之也〔以上制宮城之義。〕
新字:伊弉諾尊・伊弉冊尊。降居磤馭廬島。化作八尋之殿。又化竪天柱。 謹按。是天神宮殿之始也。今其制不可言。八者四方四隅之数。天者人物之所法也。能詳其実。則万世之規制又始于此也。 神武帝辛酉。於畝傍之橿原也。太立宮柱於底磐之根。峻峙搏風於高天之原。 一書曰。神武帝建都橿原。経営帝宅。仍令天富命。〔太玉命之孫。〕率手置帆負彦狭知二神之孫。以斎斧斎鉏始採山材。構立正殿。所謂底都磐根宮柱〔布都之利〕立高天乃原搏風高之排皇孫命乃美豆乃御殿造奉仕也。故其裔今在紀伊国名草郡御木麁香二郷。〔採材斎部所居。謂之御木。造殿斎部所居。謂之麁香。〕 謹按。是人皇宮殿之始也。此時去荒濛之世未遠。唯構正殿。以象神代之天柱。始万世之洪基也。凡宮者室也。殿者堂之高大。屋之厳正也。人必有居。有居則未嘗無宮殿。況人君乎。況帝居乎。既有宮殿。則不無制度。故経始之営。上正天時以象文明。下随水土以量豊約。中考百世以模聖賢。匪樸匪断。去泰去甚。折中以儀形当時。垂示万代。是乃天神天柱之実乎。蓋中州代代之経営。専簡樸。而尽力於溝洫。唯有大極殿・大安殿之名。是乃宮殿也。〔大極殿以臨朝。大安殿以宴群臣。是宮与殿也。〕桓武帝遷都於平安城。牢籠先王。鑒察異域。大張規模。造新門。営新宮。名其門。題金榜。〔釈弘法。橘逸勢。野道風。藤行成。書其字。〕名其殿以嘉言。前殿曰紫宸。其制肖外朝之明堂。乃饗万国朝諸侯之所〔秦漢曰前殿。周曰明堂。路寝。以帝居象天之紫宮。〕也。又曰南殿。天子負扆南嚮以聴政之義也。中殿曰清涼。常宸居所。又曰御殿。平生宴遊之所也。後殿曰貞観。乃后宮也。此外宮殿・堂楼・院閣。丹墀青瑣。金鋪玉屝〔音俟。砌也。〕井欄綺窓。無不尽善尽美。図以河洛賢聖。而法大舜視古人之象。像以乾坤儀形。而守聖皇立宮柱之太。厳九重之深邃。披九条之広路。十二之通門迭洞。十七之宝殿珠聯。以宸儀仰弥高。法座則弥正。彼如事固陋与愛紛奢。不可同日而語之也〔以上制宮城之義。〕
書き下し
伊弉諾尊・伊弉冊尊、降り居しまして磤馭廬島に、八尋の殿を化作し、又た天柱を化竪てたまう。 謹んで按ずるに、是れ天神宮殿の始めなり。今其の制は言うべからず。八は四方四隅の数、天は人物の法る所なり。能く其の実を詳らかにすれば、則ち万世の規制も又た此に始まるなり。 神武帝辛酉、畝傍の橿原に於いて、太く宮柱を底磐の根に立て、峻く搏風を高天の原に峙つ。 一書に曰く、神武帝、都を橿原に建て、帝宅を経営す。仍りて天富命〔太玉命の孫〕をして、手置帆負・彦狭知の二神の孫を率いて、斎斧・斎鉏を以て始めて山材を採り、正殿を構え立てしむ。所謂る底都磐根に宮柱布都之利立て、高天乃原に搏風高之排き、皇孫命乃美豆乃御殿を造り奉仕うるなり。故に其の裔、今紀伊国名草郡の御木・麁香二郷に在り。〔材を採る斎部の居る所、之を御木と謂う。殿を造る斎部の居る所、之を麁香と謂う。〕 謹んで按ずるに、是れ人皇宮殿の始めなり。此の時、荒濛の世を去ること未だ遠からず。唯だ正殿を構え、以て神代の天柱に象り、万世の洪基を始むるなり。凡そ宮とは室なり。殿とは堂の高大にして、屋の厳正なるなり。人必ず居有り、居有れば則ち未だ嘗て宮殿無くんばあらず。況んや人君をや。況んや帝居をや。既に宮殿有らば、則ち制度無くんばあらず。故に経始の営は、上は天時を正して以て文明に象り、下は水土に随いて以て豊約を量り、中は百世を考えて以て聖賢に模す。樸ならず断ならず、泰を去り甚だしきを去り、折中して以て当時に儀形し、万代に垂示す。是れ乃ち天神天柱の実か。蓋し中州代代の経営は、専ら簡樸にして、力を溝洫に尽くす。唯だ大極殿・大安殿の名有るは、是れ乃ち宮殿なり。〔大極殿は以て朝に臨み、大安殿は以て群臣を宴す。是れ宮と殿となり。〕桓武帝、都を平安城に遷し、先王を牢籠し、異域を鑑察し、大いに規模を張る。新門を造り、新宮を営み、其の門に名づけ、金榜を題す。〔釈弘法・橘逸勢・小野道風・藤原行成、其の字を書く。〕其の殿に名づくるに嘉言を以てす。前殿を紫宸と曰う。其の制は外朝の明堂に肖る。乃ち万国を饗し諸侯を朝せしむる所なり。〔秦漢は前殿と曰い、周は明堂・路寝と曰う。帝居を以て天の紫宮に象る。〕又た南殿と曰うは、天子扆を負いて南に嚮いて政を聴くの義なり。中殿を清涼と曰う。常の宸居の所なり。又た御殿と曰う。平生宴遊の所なり。後殿を貞観と曰う。乃ち后宮なり。此の外、宮殿・堂楼・院閣、丹墀青瑣、金鋪玉扉〔音は俟、砌なり。〕井欄綺窓、善を尽くし美を尽くさざる無し。図するに河洛賢聖を以てし、大舜の古人の象を視るに法る。像するに乾坤の儀形を以てし、聖皇の宮柱を立てたまいし太きを守る。九重の深邃を厳にし、九条の広路を披き、十二の通門迭いに洞し、十七の宝殿珠のごとく聯なる。宸儀を以て仰げば彌いよ高く、法座は則ち彌いよ正し。彼の固陋に事え紛奢を愛するが如きは、同日にして語るべからず。〔以上、宮城を制するの義。〕
現代語訳
伊弉諾尊・伊弉冊尊は磤馭廬島に降りて住み、八尋の殿を造り出し、また天の柱を建てた。 素行はこう考える。これは天神の宮殿の始めである。今、その制は説明できない。八は四方四隅の数であり、天は人や物が手本とするところである。その実を詳しくすれば、万世の規制もまたここに始まるのである。 神武帝の辛酉の年、畝傍の橿原において、宮柱を地の底の岩盤の根に太く立て、搏風(屋根の破風板)を高天原にそびえ立たせた。 一書に言う。神武帝は橿原に都を建て、帝の住まいを造営した。そこで天富命(太玉命の孫)に、手置帆負・彦狭知の二神の子孫を率いさせ、斎斧・斎鉏で初めて山の材木を切り出し、正殿を建てさせた。いわゆる「底都磐根に宮柱を布都之利立て、高天乃原に搏風高之を排き、皇孫命の御殿を造り奉仕する」ということである。だからその子孫は今、紀伊国名草郡の御木・麁香の二郷にいる。(材木を切り出す斎部が居る所を御木といい、殿を造る斎部が居る所を麁香という。) 素行はこう考える。これは人皇の宮殿の始めである。この時はまだ混沌の世を去ること遠くなかった。ただ正殿を構えて神代の天柱に象り、万世の大きな基を始めたのである。そもそも宮とは室であり、殿とは堂の高大で、屋の厳正なものである。人は必ず住まいを持ち、住まいがあれば宮殿のようなものがないことはない。まして人君はなおさらであり、帝の居所はなおさらである。宮殿があれば制度がないはずがない。だから造営の始めは、上は天の時を正して文明に象り、下は風土に従って豊かさと質素さをはかり、中は百世を考えて聖賢に手本を取る。質素すぎず華美すぎず、奢りを去り度を超えるのを去り、折衷して当時の模範とし、万代に示す。これが天神の天柱の実であろうか。思うに、中州の代々の経営はもっぱら簡素で、力を溝や水路の整備に尽くした。ただ大極殿・大安殿という名があり、これが宮殿である。(大極殿は朝廷に臨む所、大安殿は群臣に宴を賜う所である。これが宮と殿である。)桓武帝は都を平安城に遷し、先王の事績を包みこみ、異国を観察し、大いに規模を広げた。新しい門を造り、新しい宮を営み、その門に名をつけ、金の額を掲げた。(弘法大師・橘逸勢・小野道風・藤原行成がその字を書いた。)その殿の名には嘉言(めでたい言葉)を用いた。前殿を紫宸という。その制は外朝の明堂に似せ、万国をもてなし諸侯を朝見させる所である。(秦漢では前殿といい、周では明堂・路寝といった。帝の居所を天の紫宮に象る。)また南殿というのは、天子が衝立を背に南に向いて政を聴くという意味である。中殿を清涼という。普段の天子の居所である。また御殿という。日常の宴遊の所である。後殿を貞観という。后宮である。このほか宮殿・堂楼・院閣は、赤い庭石と青い飾り窓、金の金具と玉の扉(扉の音は俟、砌のことである)、井戸の欄干、美しい窓、善を尽くし美を尽くさないものはない。絵には河図洛書や賢聖を描いて大舜が古人の象を見たのに倣い、形は天地の姿にかたどって聖皇が宮柱を立てた太さを守る。九重の奥深さを厳しくし、九条の広い道を開き、十二の通門が互いに通じ、十七の宝殿が珠のように連なる。天子の威儀を仰げばますます高く、玉座はますます正しい。あの粗末な建築に仕え、華美な奢りを愛するのとは、同じ日に語ることはできない。(以上、宮城を制する意義。)
解説

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『中朝事実』皇統章・神武天皇の即位と三綱・皇統無窮の論神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見。彦波瀲武鸕鷀葺不合尊の第四子なり。年四十五歳に及び、諸兄及び子等に謂いて曰く、昔、我が天神高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授けたまえり。是に於いて火瓊瓊杵尊、天関を闢き、雲路を披き、駈山躍りて以て戻止る。是の時、運は鴻荒に属し、時は草昧に鍾る。故に蒙にして以て正を養い、此の西偏を治めたまう。皇祖・皇考、乃ち神、乃ち聖、慶を積み暉を重ね、多くの年所を歴たり。天祖の降跡より以逮、今に于りて一百七十九万二千四百七十余歳なり。而して遼邈の地、猶お未だ王沢に霑わず。遂に邑に君有り、村に長有りて、各おの自ら疆を分かち、用て相凌躒せしむ。抑も又た塩土老翁に聞く、東に美地有り、青山四周せり。其の中に亦た天磐船に乗りて飛び降る者有り、と。余謂えらく、彼の地は必ず以て天業を恢弘し、天下に光宅するに足るべし、蓋し六合の中心か、と。遂に東征して中州を定む。 謹んで按ずるに、是れ人皇、中州を平らげ、天祖の降跡を続ぐの始めなり。 辛酉春正月庚辰朔、天皇、帝位に大倭州の橿原宮に即く。是の歳を天皇元年と為す。正妃を尊びて皇后と為す。皇子神淳名川耳尊を立てて皇太子と為す。 謹んで按ずるに、是れ天皇即位の始めなり。初め天神、磤馭廬島を以て国中の柱と為し、分巡りて国柱す。天孫は浮渚の平処に立ち、宮殿を立つ。皆な後世の即位の意なり。洪濛の間、悠久にして以て正を養う。帝は明達大雄にして、善く乾霊の志を継ぎ、善く皇孫の事を述ぶ。一たび戎衣して東方服す。故に人皇の洪基を建て、即位の大礼を開く。蓋し即位とは何ぞ。天子、大宝の位に即くなり。人君、天を継ぎ極を建て、万国以て朝し、元元以て仰ぎ、四海始めて知る。天子の以て崇ぶべき、明徳を中州に明らかにするの義を。即位の大礼は、人君、綱紀を其の始めに正す。豈に忽せにすべけんや。是れより代代の聖主、各おの此の儀を正殿に行う。〔大極殿、朝堂殿と謂う、是れなり。〕大臣、左右に扶翼す。〔大神勅す、天児屋命・太玉命、惟れ爾二神も亦た同じく殿内に侍いて、善く防護を為せ、と。是れ其の義なり。〕百官、囲み護りて、以て天儀を奉拝す。外国の所謂る正月元日、舜、文祖に格る、是れなり。元とは始めなり、本なり。元年とは即位の初年にして、根本を此に深くして傾かず抜けざるの謂なり。〔此の時既に暦数紀年有り。店暦本とは、百済の釈観勒、推古十年之を献ず。〕皇后を立つるとは、男女の別を正し、嫡媵の辨を明らかにし、廃奪の失を懲らすなり。太子を建つとは、〔神武帝の四十二年に在り。〕父子の親を著し、嫡庶の分を厳にし、宗廟の統を固くするなり。故に人君、即位の礼を厳にして後、天下の君臣其の分定まる。后妃の道を重くして後、天下の男女其の別正し。建立の法を定めて後、天下の父子親しむ。三者は人の大倫なり。三綱立ち行わるれば、則ち身修まり家斉い、治平の功、坐して以て俟つべし。帝、皇極を人皇の始めに建て、規模を万世の上に定む。而して中国明らかに三綱の遺すべからざるを知る。故に皇統一たび立ちて、億万世襲いて変ぜず。天下皆な正朔を受けて其の時を貳つにせず、万国王命を禀けて其の俗を異にせず。三綱終に沈淪せず、徳化塗炭に陥らず。異域の外国、豈に企望すべけんや。夫れ外朝は姓を易うること殆ど三十姓。戎狄入りて王たること数世。春秋二百四十余年、臣子其の国君を弑する者二十又五。況んや其の先後の乱臣賊子は枚挙すべからず。朝鮮は箕子命を受けて以後、姓を易うること四氏、其の国を滅ぼして或いは郡県と為し、或いは高氏滅絶すること凡そ二世。彼の李氏の二十八年の間、王を弑する者四。況んや其の先後の乱逆は禽獣の相残うに異ならず。唯だ中国は開闢より人皇に至るまで、二百万歳に垂とし、人皇より今日に迄るまで二千三百歳を過ぐ。而して天神の皇統は竟に違わず。其の間の弑逆の乱は、指を屈して数うべからず。況んや外国の賊は竟に吾が辺藩を窺うを得ざるをや。後白河帝の後、武家執権すること既に五百又た余年。其の間、未だ嘗て利皆長距以て擅場を得、冠猴封豕、縦火秋蓬の類無くんばあらず。而も猶お王室を貴び君臣の儀を存す。是れ天神人皇の知徳縣象著明にして、没世忘るべからざるなり。其の過化の功、綱紀の分、然く悠久に然く無窮なる者は、至誠より流出するなり。三綱既に立てば、則ち条目の著るる、治政の極致に在り。凡そ八紘の大、外国の汎、中州皇綱の化に如くは無し。文武の功、其の至徳、豈に大ならずや。〔以上、人皇の即位。〕 以上、皇統の無窮を論ず。謹んで按ずるに、天下とは神器にして、人君とは人物の命を繋ぐ者なり。其の与授の間、豈に一人の私を存せんや。皇統の初め、天神以て之を授け、天孫以て之を受く。然れば乃ち其の知徳、天地に愧じずして後、神器の与授と謂うべし。凡そ天は言わず、人之に代わりて言う。天下の人仰ぎ帰すれば、則ち天之に命ずるなり。天下の帰仰する所、更に他に非ず。唯だ天祖眷眷の命に在るのみ。
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『中朝事実』聖政章・民心と習俗を察する政教の始め神武帝己未の年春三月辛酉朔丁卯、令を下して曰く、「今、運此の屯蒙に屬し、民心朴素なり。巢に棲み穴に住み、習俗惟れ常なり。夫れ大人の制を立つるは、義必ず時に隨ふ。苟くも民を利する有らば、何ぞ聖造を妨げん」と。 謹んで按ずるに、是れ政令の始めなり。民心は天下の人心なり。習俗は人皆習ひて以て俗と爲すなり。言ふこころは、天下屯蒙にして、人心詐僞に與せず、穴居野處して以て習俗と爲す。今帝天を繼ぎ極を建て、以て天下の禮を正さんと欲し、其の舊俗を新たにす。故に此の詔有るなり。人心の朴素は、善政に染まり易きが如く、而して習俗の舊汚は又變じ難し。時義、是れ革むるの時、又大なり。聖英の天縱に非ざれば、之を得べからざるなり。蓋し政の要は民心と習俗とを察するに在り。人心は必ず俗と與に化し、善惡以て成る。人君政を立て敎率を明らかにすれば、則ち民心化して風俗成る。風俗の成るは習熟の久しきに在り。習熟久しければ則ち民其の然るを識らず。故に曰く、政の要は民心と習俗とを察するに在り、と。此の章、政敎の大體を盡くすと謂ふべし。〔以上、政敎の大體。〕 四年春二月壬戌朔甲申、詔して曰く、「我が皇祖の靈や、天より降り鑒み、光りて朕が躬を助けたまふ。今諸々の虜已に平らぎ、海内事無し。以て天神を郊祀し、用て大孝を申ぶべし」と。乃ち靈畤を鳥見山の中に立つ。其の地を號して上小野榛原・下小野榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭る。 先人曰く、神武天皇、都を大和國橿原に定む。時に三種の神寶を以て大殿に安置し、床を同じくして坐したまふ。蓋し往古の神勅の如し。此れに由りて皇居と神宮と差別無し。宮中に庫藏〔此に齋藏と云ふ。〕を立て、宮物・神物分かつ無し。此の時天兒屋根命の孫天種子命、專ら祭祀の事を主る。是れ乃ち朝政を執るの儀なり。 謹んで按ずるに、天下の政事は郊社宗廟の祭祀より大なるは莫し。夫れ人君は天地を以て父母と爲す。況んや帝は乾靈天孫の統を承け、以て四海に臨むをや。蓋し神に交はるの道は誠に在り。至誠以て祭祀すれば、則ち鬼神の幽冥も亦格思すべし。蕞爾たる黎民も、至誠以て之を求むれば、則ち感ぜざる無し。故に往古は神祇の祭祀と朝廷の政事と、其の義を二にせず。深いかな。〔俗に政を訓みて祭事とするは是れなり。〕凡そ祭祀を主る者は、皆朝政を執る。天種子命・神八井耳命の如きは是れなり。〔神八井耳命は、神武帝の皇子、綏靖帝の兄なり。神八井耳命曰く、「吾は是れ乃の兄なり。而るに懦弱にして果を致す能はず。今汝特に神武を挺し、自ら元惡を誅す。宜なるかな。汝の天位に光臨し、以て皇祖の業を承くること。吾當に汝の爲に輔けて神祇を典り奉るべし」と。是れ卽ち多臣の始祖なり。〕帝、神勅を守り、以て靈器を敬ふ。且つ天神を郊祀し、用て大孝を申ぶ。其の兢兢業業として政敎を愼むは、萬世の規戒なり。〔以上、祭政の實。〕 崇神帝十年秋七月丙戌朔己酉、群卿に詔して曰く、「民を導くの本は、敎化に在り。今既に神祇を禮し、災害皆耗せり。然れども遠荒の人等、猶ほ正朔を受けず。是れ未だ王化に習はざるのみ。其れ群卿を選びて四方に遣はし、朕が憲を知らしめよ」と。 謹んで按ずるに、是れ行人を發して以て敎を四方に施すの始めなり。導は啓迪なり。敎化に至らざれば、則ち民と敎と別なり。民情化適して敎成る、之を敎化と謂ふ。正朔は王曆なり。天下皆正朔を受くるは、其の天に事ふるを同じくするなり。正朔を受けざれば則ち民俗を殊にす。王化は天下皆其の敎令を守りて其の三綱を正すなり。王化未だ習はざれば則ち民意を異にするなり。憲は法なり。憲章以て人に示すなり。言ふこころは、民皆此の心有り、敎化明らかならず故に其の性を盡くさず。之を啓迪するは敎の化に在り。鬼神を敬ふと民を敎化するとは、其の本至誠に出でず、而して鬼神は幽にして信、人民は習にして駁なり。故に鬼神に事ふるは致敬に在り、人民を治むるは敎を盡くすに在り。帝既に晨に興き夕に惕れ、齊明盛服して以て鬼神を敬ふ。災害既に耗す。然れども天下未だ軌を一にせず、四方未だ俗を均しくせず。今憲章を建て、以て時月を考へ、禮樂制度を同じくし、以て民性を節し、道德を一にして以て俗を同じくす。十二年に及び敎化流行し、衆庶業を樂しみ、富庶既に滿つ。人民皆長幼の序、課役の制を知る。宜なるかな其の至德を稱せらるること。蓋し後世に迄びて巡察・按察・宣撫の法有り、以て風俗制度を正し革む。推古帝に及び、聖德太子憲法を定め、孝德帝天下の政制を詳にし、天武帝律令法式を定め、文武帝の朝、淡海公勅を奉りて律令を撰び、終に萬世政令の準標と爲る。其の本は皆此に基づく。帝の功、亦大ならずや。〔以上、憲章の敎。〕
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『中朝事実』禮儀章・朝賀の儀と誓約・盟神探湯の礼神武帝辛酉の年春正月庚辰朔、天皇帝位に橿原宮に卽く。是の歲を天皇の元年と爲す。故に古語に之を稱して曰く、「畝傍の橿原に、太く宮柱を底磐の根に立て、峻く搏風を高天の原に峙てて、始めて天下を馭す天皇」と。號して神日本磐余彥火火出見天皇と曰ふ。初め天皇天基を草創するの日なり。大伴氏の遠祖道臣命、大來目部を帥ゐ、密策を奉承し、能く諷歌・倒語を以て、妖氣を掃蕩す。倒語の用、玆に始起す。 謹んで按ずるに、是れ朝儀賀正旦の始めなり。是の歲は卽位の元年、故に正月の賀有り。後世の歲首に朝賀の禮を行ふに同じからずと雖も、賀正旦、此に始まる。是れ乃ち朝儀の禮なり。凡そ朝儀は朝廷の禮儀なり。朝廷は天地を以て其の基を立て、天下は朝廷を以て標準と爲す。朝廷の威儀は以て嚴正なるに在り。凡そ王朝の禮に、年中行事有り、恒例有り、臨時有り、每月の禮有り、公侯朝聘の禮有り、饗燕の禮有り、巡守・田獵・大射の禮有り、神社祭禮有り。而して歲首慶賀の禮を以て大儀と爲す。正月は一年の始め、歲序端を更め、萬物惟れ新たなるの節なり。臣子畢く朝會拜賀し、其の慶びを奉ずるは、信義の當然なり。蓋し朝儀は一ならず、代代の聖主、或いは其の例を追ひ其の風を慕ひ、或いは新たに其の儀を立て、其の制を斟酌して、而る後に悉く備はる。其の間多く習俗の儀有りて、以て因循し來たる。又以て禮の大意を存するに足る。竊かに惟ふに、朝賀は臣子、宸儀を拜慶するの禮なり。否らざれば乃ち臣子の情安んずべからず。故に一月に朔・望・晦の禮有り、其の間又大朝賀の節有り。群臣悉く敬を君上に致し、以て祝頌を奉る。是れ臣子の分定まるなり。宴會は君上、宴を群臣に賜ふなり。饗有り、食有り、燕有り。此れ上下交はり、君臣德を和し業を成し、相親愛する所以なり。故に朝賀を以て尊卑の禮を嚴にし、燕會を以て上下の情を和す。朝賀に由りて其の威儀を正し、燕會に因りて其の風雅を作す。外は則ち以て禮容を觀、内は則ち以て恩惠を廣む。然れば乃ち徒に之を威し之を儀するに非ず、徒に之を飮ませ之を食はしむるに非ず、皆恭儉を訓へ惠慈を示す所以なり。夫れ王朝の儀は舊紀に粲然として載す。然れども能く其の事物を致して以て其の儀を正せば、乃ち其の禮大成し、朝儀の實を啓くべし。後世必ず外朝の例を以て附會するは、中國の禮、尤も正しからざるの至りなり。〔以上、王朝の禮を謂ふ。〕 素戔鳴尊昇天の時、溟渤以て鼓盪し、山岳之が爲に鳴呴す。此れ則ち神性雄健にして之をして然らしむるなり。天照太神、素より其の神の暴惡なるを知り、徑ちに詰問す。素戔鳴尊對へて曰く、「吾元より黑心無し」と。時に天照太神復た問ひて曰く、「若し然らば、將に何を以て爾の赤心を明らかにせんや」と。對へて曰く、「請ふ、姉と共に誓はん。夫れ誓約の中〔誓約の中、此に宇氣譬能美難箇と云ふ。〕必ず當に子を生むべし。如し吾が生む所是れ女ならば、則ち以て濁き心有りと爲すべし。若し是れ男ならば、則ち以て清き心有りと爲すべし」と。 謹んで按ずるに、是れ神代の誓約、乃ち後世誓盟の禮なり。凡そ誓は、己が信を明らかにし、人の疑ひを解く所以なり。事物の間、或いは未だ嘗て其の疑ひ無くんばあらず。疑ひを解くの道は誓約に在り。鬼神に祈り、信を幽冥に期す。故に天神、誓を許して以て其の清濁の心を明らかにす。後世之に因り、終に誓盟の禮有り。蓋し誓は唯だ言辭を以て神祇に請ひて其の信を約するなり。盟は物を以て其の事を證し、直ちに其の信僞を決するなり。遠く神明に請ひ、血を瀝りて之を書に載す。其の禮、誓より嚴なり。猶ほ埿を釜に納れて煮沸し、手を攘ひて湯埿を探り、斧を燒きて火色にして掌に置くがごとし。是を盟神探湯と曰ふ。〔盟神探湯、此に區訶陀智と云ふ。〕後世に及び、載書を作り血を瀝り神祇に告ぐるの禮有り。〔孝德帝卽位し、群臣を召集し、天神地祇に盟ひ告げて曰く、「天は覆ひ地は載せ、帝道は唯だ一なり。而るに末代澆薄にして、君臣序を失ふ。皇天手を我に假し、暴逆を誅珍す。今共に心血を瀝り、今より以後、君に二政無く、臣に貳朝無し。若し此の盟に貳せば、天災地妖、鬼誅人伐せん。皎として日月の如し」と。〕人皆聖賢に非ず、信有り僞有り、直有り曲有り。正は疑ふべからざる有り、奸は疑ひ無かるべからざる有り。是れ天下の通情なり。神聖の敎、人情事變に通じ、詳らかに其の道を致す。故に端を此に起し、戒めを後に垂る。言以て之を結び、明神以て之を要す。天下の疑惑忽ち解けて、事物の大義決行すべし。否らざれば乃ち人人疑ひを存すべく、戸戸各々辨ずべし。今、誓盟の禮を襲ひ、信僞曲直、一擧に道に歸す。其の禮たる大なるかな。或ひと疑ふ、君子屢々盟へば、亂是を以て長ず。誓を作して民始めて畔き、會を作して民始めて疑ふ、と。愚謂へらく、聖人の道、能く天下の人情に從ふ。故に偏無く倚無し。徒杠と梁と成りて、而る後に民水を涉るに病まず。盟誓以て約して、而る後に民其の疑ひを免るべし。人毎に之を試みるも、亦足らず。然れども盟誓は必ず禮有り。之を用ゐるに禮を以てせざれば、民畔きて恥ぢず。何ぞ必ずしも誓盟を用ゐんや。凡そ知や仁や其の道を致さざれば、猶ほ荑稗に如かず。專ら神屢々盟ふを要するは、是れ之を用ゐるに禮を以てせざるなり。周豐の言の如く、過ちて徴無し、何ぞ之を取るに足らんや。〔以上、誓盟の禮を論ず。〕
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『中朝事実』禮儀章・官を立てる礼と文武の二職神武帝二年春二月甲辰朔乙巳、天皇功を定め賞を行ひ、道臣命に宅地を賜ひ、築坂邑に居らしめ、以て寵異す。亦大來目をして畝傍山以西の川邊の地に居らしむ。今、來目邑と號す。此れ其の緣なり。珍彥を以て倭國造と爲す〔珍彥、此に于磐毗故と云ふ。〕。又弟猾に猛田邑を給ふ。因りて猛田縣主と爲す。是れ菟田主水部の遠祖なり。弟磯城黑速を、磯城縣主と爲す。復た劒根といふ者を以て葛城國造と爲す。 一書に曰く、此の時天兒屋根命の孫天種子命、專ら祭祀の事を主る。是れ乃ち朝政を執るの儀なり。 謹んで按ずるに、是れ功臣を封じ官職を立つるの初めなり。 崇神帝十年秋九月、四道將軍に命ず。 謹んで按ずるに、是れ武官を立つるの初めなり。 景行帝五十一年秋八月己酉朔壬子、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ大臣を以て棟梁の臣と爲すなり。成務帝の朝に初めて大臣と號す。仲哀帝の朝に大連の號有り。大臣・大連相並びて天下の政を知る。 成務帝五年秋九月、諸國をして國郡を以て造長を立て、縣邑に稻置を置かしむ。 謹んで按ずるに、是れ國郡守司を立つるの始めなり。初め國造・縣主の號有りて、未だ其の職掌を致さず。此に及び其の器を撰びて以て其の官を授く。 推古帝十一年冬十二月戊辰朔壬申、始めて冠位十二階を行ふ。孝德帝大化五年春正月、始めて八省百官を置く。 謹んで按ずるに、是れ百官を立つるの始めなり。先に是れ群臣・百寮・諸卿・有司の名有りと雖も、未だ其の職掌を致さず。此に至りて八省百官を置き、始めて群臣の職分定まり、天下其の禮を知る。文武帝に及び、律令を撰び、大いに官位職員を定め、其の後損益相續ぎて、萬世之を襲ひ、以て準據と爲す。蓋し官を立つるは治平の道にして、其の事有れば則ち其の職無くんばあらず、其の職有れば則ち其の官無くんばあらず、其の官有れば則ち其の位無くんばあらず。是れ物有れば必ず則有るなり。既に官を立て位を設くれば、則ち其の道其の禮未だ嘗て之を正さずんばあらず。竊かに按ずるに、官は惟れ百なれども、其の統ぶる所は文武の二職に在り。文は以て禮を守り、武は以て違ひを糺す。故に草業には乃ち武臣を以て其の功を立て、守成には乃ち文臣を以て其の禮を正す。文武互ひに根とし、先後は時を以てし、而して一人を輔佐す。是れ乃ち往古の神聖、經津主神・建雷神を以て諸の不順を平らげしめ、二神に命じて天孫に侍らしめ、且つ天忍日命を先にせし所以なり。故に神武帝、道臣命・饒速日命を封賞し、天種子命・天富命をして以て左右と爲さしめ、歷代因循して此の二職を重んず。夫れ土地有れば則ち其の司を立て、人民有れば則ち其の長帥を建て、物有れば則ち其の司を設け、事有れば則ち其の職を令し、而して師を置きて以て其の道を敎へ、監を立てて以て其の務を省み、以て其の禮を糺し、其の事を記し、法を萬世に垂れ、治平を天下に期す。是れ乃ち官を立つるの禮なり。官立ち位定まれば、則ち百寮有司及び四民の制、其の禮自ら正し。官位の尊卑に因り、以て家宅衣服を制し、飮食器用を設け、交際言語の法を定め、冠婚喪祭の禮を正し、三綱を擧げて明德を明らかにす。立官の義、其の用大なるかな。否らざれば乃ち官は空しく設け位は虛名にして、其の人に非ずして其の職を貪り、其の功無くして其の高きに居る。玆に於て百官大いに紊れ、職掌日に違ふこと、猶ほ桃梗土偶の金蟬貂に附くが如し。故に天下の禮上に混じ、四民下に僭紊す。豈に往古神聖の心ならんや。〔以上、立官の禮を謂ふ。〕