玉勝間 / 六の巻 寛治五年女御入内夜御装束
同記に、同五年十月廿五日(庚辰、)有三品篤子内親王入內之事、(是後三條院第四女、母贈大后藤茂子、太上皇同母弟也、陽明院養爲御子、)云云、今夜女御御裝束、裏濃蘇芳御衣五、濃御單、同御袴、同打衣上着、梅花五重上著、黄菊五重小打著、赤色五重唐衣、白羅御裳也。
新字:同記に、同五年十月廿五日(庚辰、)有三品篤子内親王入内之事、(是後三条院第四女、母贈大后藤茂子、太上皇同母弟也、陽明院養為御子、)云云、今夜女御御装束、裏濃蘇芳御衣五、濃御単、同御袴、同打衣上着、梅花五重上著、黄菊五重小打著、赤色五重唐衣、白羅御裳也。
書き下し
同じ記に、同五年十月二十五日(庚辰)、三品篤子内親王入内の事有り(これ後三条院の第四女、母は贈大后藤茂子、太上皇の同母の弟なり。陽明院養いて御子と為す)、云云。今夜の女御の御装束、裏濃き蘇芳の御衣五つ、濃き御単、同じき御袴、同じき打衣を上に着る、梅花の五重を上に着る、黄菊の五重の小打着、赤色の五重の唐衣、白き羅の御裳なり。
現代語訳
同じ中右記に、寛治五年十月二十五日(庚辰)、三品篤子内親王の入内のことがあった(この方は後三条院の第四皇女で、母は贈皇太后藤原茂子、太上皇(白河上皇)と同じ母から生まれたきょうだいである。陽明院(陽明門院)が養ってご自分の子とされた)、云々。今夜の女御のご装束は、裏の濃い蘇芳色の御衣を五枚、濃い色の御単、同じ色の御袴、同じ色の打衣を上に着て、梅の花の襲の五重を上に着て、黄菊の襲の五重の小袿、赤色の五重の唐衣、白い羅(うすもの)の御裳であった。
解説
堀河天皇のもとに篤子内親王が入内した夜の装束を、中右記から写し取った一段である。篤子内親王は後三条天皇の皇女で、白河上皇の同母のきょうだいにあたり、甥の堀河天皇よりずっと年長で入内した。記事の中心は衣の色と重ねの記録である。蘇芳、梅花、黄菊、赤色と、季節の花の名で呼ばれる襲の色目が並び、何枚重ねたかまで記される。宣長は有職故実にも深い関心を持ち、こうした装束の実例を古記録から集めた。規定を書いた書物だけでは分からない、実際にその夜何が着られたかを知る手がかりになるからである。晴れの日の衣の一枚一枚にまで名と意味があった世界を、記録は今に伝えている。
関連する章句
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