玉勝間 / 六の巻 御書始
中右記云、寛治元年十二月廿四日(壬寅)今日未刻許、有御-書-始事、以式部權大輔正家朝臣、爲侍讀、其儀如式、以左少辨敦宗、爲尙復、云云、件三點圖、正家朝臣、御書始所注進也、以白色-紙小作子無表紙。書付之、
新字:中右記云、寛治元年十二月廿四日(壬寅)今日未刻許、有御-書-始事、以式部権大輔正家朝臣、為侍読、其儀如式、以左少弁敦宗、為尚復、云云、件三点図、正家朝臣、御書始所注進也、以白色-紙小作子無表紙。書付之、
書き下し
中右記に云う、寛治元年十二月二十四日(壬寅)、今日未の刻ばかり、御書始の事有り。式部権大輔正家朝臣を以て、侍読と為す。その儀式のごとし。左少弁敦宗を以て、尚復と為す、云云。件の三点図は、正家朝臣、御書始に注進する所なり。白色の紙の小作子、表紙無きを以て、これに書き付く。
現代語訳
中右記(藤原宗忠の日記)にいう。寛治元年十二月二十四日(壬寅)、今日の未の刻(午後二時ごろ)ばかりに、天皇の御書始の儀があった。式部権大輔の正家朝臣(藤原正家)を侍読(天皇に書物を講じる役)とした。その儀式は定めのとおりであった。左少弁の敦宗を尚復(侍読の読んだところを繰り返し読む役)とした、云々。例の三点図は、正家朝臣が御書始のために書いて差し出したものである。表紙のない白い紙の小さな冊子に、これを書き付けた。
解説
中右記から、天皇が初めて漢籍の講義を受ける御書始の記事を抜き書きした一段である。中右記は藤原宗忠の日記で、院政期の朝廷を知る基本史料である。この年は堀河天皇が位についた翌年で、幼い天皇の学問始めにあたる。侍読が読み、尚復が繰り返す、という役の分担に、漢籍を声に出して授けた当時の講書の姿がうかがえる。三点図は訓読の符号の図を指すと考えられ、どの点をどう読むかを記したものを冊子にして差し出したのだろう。宣長は玉勝間の中に、こうした古記録の断片を数多く書き留めている。儀式の細部を拾い集めることが、古の朝廷の姿を具体的に知る手だてになると考えたからである。
関連する章句
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