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玉勝間 / 六の巻 菅家万葉集

菅家萬葉集上下二卷あり。見るに、上の卷は、云ふべき事も無きを、下の卷は、歌は、眞字のさま、上ノ卷とかはれる事無ければ、同じく菅原ノ大臣のものし給へるならんを、詩のさまなん、上の卷とはこよなくして、更にかのおとどの御しわざとは見えず。むげに拙なくして、唯だ七言四句にととのへたるのみこそ有れ、心もつづかず、ねことなどを聞くやうにて、何事ともわきまへ難く、いといとみだりがはしく、韻字と云ふ物をだにととのへず、さらに詩と云ふべき物にもあらず。されば下ノ卷は、かの大臣は、歌のみを物し給ひて、詩をば添へ給はざりけむを、後の世の人の、上の卷にならひて、みだりにおぎなひたるなるべし。さるはむげに物のこころも知らぬ、をこの者のしわざとこそ見えたれ。序も、下ノ卷のは、詩と同じ人の書りと見えて、いとをさなし。

新字:菅家万葉集上下二巻あり。見るに、上の巻は、云ふべき事も無きを、下の巻は、歌は、真字のさま、上ノ巻とかはれる事無ければ、同じく菅原ノ大臣のものし給へるならんを、詩のさまなん、上の巻とはこよなくして、更にかのおとどの御しわざとは見えず。むげに拙なくして、唯だ七言四句にととのへたるのみこそ有れ、心もつづかず、ねことなどを聞くやうにて、何事ともわきまへ難く、いといとみだりがはしく、韻字と云ふ物をだにととのへず、さらに詩と云ふべき物にもあらず。されば下ノ巻は、かの大臣は、歌のみを物し給ひて、詩をば添へ給はざりけむを、後の世の人の、上の巻にならひて、みだりにおぎなひたるなるべし。さるはむげに物のこころも知らぬ、をこの者のしわざとこそ見えたれ。序も、下ノ巻のは、詩と同じ人の書りと見えて、いとをさなし。

書き下し

菅家万葉集上下二巻あり。見るに、上の巻は、云うべき事も無きを、下の巻は、歌は、真字のさま、上の巻とかわれる事無ければ、同じく菅原の大臣のものし給えるならんを、詩のさまなん、上の巻とはこよなくして、更にかのおとどの御しわざとは見えず。むげに拙なくして、ただ七言四句にととのえたるのみこそ有れ、心もつづかず、ねごとなどを聞くようにて、何事ともわきまえ難く、いといとみだりがわしく、韻字と云う物をだにととのえず、さらに詩と云うべき物にもあらず。されば下の巻は、かの大臣は、歌のみを物し給いて、詩をば添え給わざりけむを、後の世の人の、上の巻にならいて、みだりにおぎないたるなるべし。さるはむげに物のこころも知らぬ、おこの者のしわざとこそ見えたれ。序も、下の巻のは、詩と同じ人の書けりと見えて、いとおさなし。

現代語訳

菅家万葉集には上下二巻がある。見てみると、上巻は特に言うべきこともないが、下巻は、歌のほうは万葉仮名の書きざまが上巻と変わるところがないので、同じく菅原の大臣(菅原道真)の手になるものだろうが、漢詩のありさまが上巻とは格段に違っていて、とてもあの大臣のなさったこととは見えない。ひどく拙くて、ただ七言四句の形に整えてあるだけで、意味もつながらず、寝言などを聞くようで何のことやらわからず、たいそう乱雑で、韻字というものさえ整えておらず、まったく詩と呼べるものではない。だから下巻は、あの大臣は歌だけをお作りになって詩はお添えにならなかったのを、後世の人が上巻にならってみだりに補ったものであろう。それも、物の道理をまるで知らない愚か者のしわざと見える。序文も、下巻のものは詩と同じ人が書いたと見えて、ひどく幼稚である。

解説

菅原道真の撰とされる菅家万葉集(新撰万葉集)の下巻を、宣長が後人の補作と断じた一段である。この集は万葉仮名で書いた和歌に、その意を詠んだ七言絶句を添えて並べる形をとる。宣長は、下巻の歌の表記は上巻と同じだから道真のものだろうが、添えられた詩は韻も踏まず意味も通らず、とても道真の作ではない、と言う。根拠は書きざまと作法の比較であり、好き嫌いではない。今日の研究でも下巻は後の成立とみるのが一般的で、宣長の見立ては大筋で当たっている。同じ書物の中にも、筆の違う者が後から書き足した部分がある。そこを見分けてから読むのが、古典を正しく読む前提だという教えである。

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