玉勝間 / 五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊
さて此中右記は、中ノ御門ノ右大臣宗忠公の日記にて、寛治元年正月より、保延元年十二月までの事を記されたり、合せて七十卷あり。然れども、のりながが見たりし本は、闕たる所所ありしを、そののち全きは未だ得見ず。寛治の頃は、宗忠公のいまだ若くて、殿上人におはせし程の事なり。
新字:さて此中右記は、中ノ御門ノ右大臣宗忠公の日記にて、寛治元年正月より、保延元年十二月までの事を記されたり、合せて七十巻あり。然れども、のりながが見たりし本は、闕たる所所ありしを、そののち全きは未だ得見ず。寛治の頃は、宗忠公のいまだ若くて、殿上人におはせし程の事なり。
書き下し
さてこの中右記は、中の御門の右大臣宗忠公の日記にて、寛治元年正月より、保延元年十二月までの事を記されたり、合わせて七十巻あり。然れども、のりながが見たりし本は、闕けたる所々ありしを、そののち全きは未だ得見ず。寛治の頃は、宗忠公のいまだ若くて、殿上人におわせし程の事なり。
現代語訳
さて、この『中右記』は、中御門右大臣宗忠公の日記で、寛治元年(1087)正月から保延元年(1135)十二月までのことを記しておられる。合わせて七十巻ある。けれども、宣長が見た本は欠けたところがあちこちあり、その後、完全なものはまだ見ることができていない。寛治のころは、宗忠公がまだ若くて、殿上人でいらした時のことである。
解説
前の二つの段で長く引いた『中右記』について、書誌を添えて結んだ段である。中御門右大臣藤原宗忠の日記で、寛治元年から保延元年まで、およそ半世紀の宮廷の出来事を記した七十巻の大著であると説明する。そのうえで、自分が見た本は欠けた所が多く、完全な本にはまだ出会えていないと正直に書く。宣長は松坂にいながら、古記録を借り写して読み続けた。公家の日記は家々に秘蔵され、町の学者が全巻を見ることは難しかった。引用した鳥羽殿の月見は宗忠がまだ若い殿上人のころの記事だと添えるのも、記録を書いた人の立場を踏まえて読む配慮である。史料を使うときには、それが誰のどんな立場の記録か、自分が見たのはどの程度完全な本かを明らかにする。今の研究にも通じる基本である。
関連する章句
-
『玉勝間』六の巻 御書始中右記に云う、寛治元年十二月二十四日(壬寅)、今日未の刻ばかり、御書始の事有り。式部権大輔正家朝臣を以て、侍読と為す。その儀式のごとし。左少弁敦宗を以て、尚復と為す、云云。件の三点図は、正家朝臣、御書始に注進する所なり。白色の紙の小作子、表紙無きを以て、これに書き付く。
-
『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊女院の御方(東面)に於て和歌を講ぜらる。題に云う、池上の月を翫ぶ、序題題、予講師を勤め、左大臣読師たり。大納言の歌を講じ了りて後、しばらくして頗る遅々たり、これ左大臣と関白殿との歌の次第の事なり。大殿の命に依りて、先ず関白殿の歌を講じ、次に左大臣、次に大殿。この間女房簾中より、三首の歌を出ださる、薄様三重に書き、扇の上に置かる(扇は銀の骨、画図殊に例なり)、同じくこれを講ず、皆以て秀歌なり。人々感歎す。ここに簾中より、御製を関白に給う、関白大殿に伝え献ず、便宜なり。大殿気色せしめ、講師座を起ちて、臣下の歌に擬す。新中納言通俊卿を召して、御製を講ぜらる、誠に以て優妙なり、感歎に堪えず、満座諷詠し、暁更に及びて各分散す。予今日殿上人の布衣の中に直衣を著く、これ弁官の人一人臣として直衣冠を著けらるる時、便無かるべきの故なり。加之、講師の役を勤むる間、数刻御前に候う、尤も善しと為すのみ、愚意の案、已に礼法に叶う。両殿下(烏帽子直衣)、左大臣公卿(冠直衣)、但しこの中藤中納言(基)・左宰相中将(伊実)・右兵衛督(雅俊)・新宰相中将(宗通)は布衣なり。皇太后宮権大夫(公定)は衣冠、上皇は御烏帽子直衣、と見えたり。これは堀河の天皇の御世にて、鳥羽殿におわしまししは、白川の上皇におわします。大殿と有るは、京極の前の関白師実公、左大臣は、源の俊房公、関白は、京極殿の御子後二条の師通公なり。この時内大臣にて、関白ながら、左大臣の次に立ち給えりき。
-
『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊中右記に云う。寛治八年、八月十五日、天晴る、午の時ばかり、大納言殿の御車の後に候いて、鳥羽殿に参入す。先ず宰相の直廬に於て休息し、具さに大納言殿に申す。申の時ばかり、大殿の御直廬に参入し、則ち公卿を引きて参らしむ。先ず鳥羽殿南御所の寝殿の東面に御す、女院も同じく御すなり。女房は南東面に打ち出づ。公卿の座は西廊にて饗饌を居う。人々著かるると雖も、盃酒の儀無し、已に日暮るるに依るなり。御船を東の渡殿に寄せ、上皇乗らしめ給う。大殿・左大臣・関白殿・藤大納言中宮大夫(師忠)・左大将(忠)・皇太后宮権大夫(公)・新宰相中将(宗通)、この外宗忠・左中将有賢、召しに依りて御船に候う。別の仰せ有り、帥大納言(経信)・備中守(政長)朝臣、御船に候うべしとて、御随身を以て尋ね問わるるに、已に数刻に及ぶ。両人追って参加せらる。後に御船を出だす。御船指四人、判官代勘解由次官顕隆・散位忠〓・蔵人高階為賢・源家時(皆布衣)。上達部の船、新大納言(家忠)・右衛門督(公実)・藤大納言(基忠)・新中納言(通俊)・江中納言(匡房)・左宰相中将(仲実)・右兵衛督(雅俊)・中宮権大夫(能実)、武者所四人を以て船指となす。布衣の殿上人の船、頭中将国信朝臣等、四十人ばかり皆布衣。この外御随身小船に副いて前行す。先ず御船に於て御遊有り、藤大納言(拍子)・帥大納言(琵琶)・左大将(箏)・宰相中将(笛)・宗忠(笙)・有賢(和琴)・皇太后宮権大夫(井)・政長朝臣付歌。先ず双調、紀伊州・席田・鳥破急、平調、大平楽破・伊勢海・廻忽・五常楽急、帥大納言朗詠、盤渉調、秋風楽三帖・青海破・蘇合急、各数反に及ぶ。時に雲収まり、天清く月明らかにして、池上の糸竹の調べ、興幽玄に入る。この間小船に棹さし、但馬守隆時朝臣・甲斐守行実朝臣御膳を供す(牙盤三前、打敷・有物有り)。諸卿伝遞してこれを供す。次第に(座に在りながら遞いに上るなり)、中宮大夫陪膳に候わる。公卿の衝重は便ち船の縁に居う。御盃は則ち大殿に給う、大殿は左大臣に指し、左大臣は関白に指し、次第に巡流して、二献に及ぶ。公卿の船にて朗詠数度、夜三更に及び、御船より上らしめ給い了んぬ。
-
『玉勝間』二の巻 春記春記と云うふみは、春宮の大夫資房の卿のにきなり。今の世には、ただ一巻ならでは伝わらずと云えり。おのが見たりし本も、八十五ひら有りて、一冊のみなりき。
-
『玉勝間』十三の巻 九月十三日の夜月をめづる事中右記に、保延元年九月十三夜、今宵雲浄く月明らかなり、是れ寛平法皇、明月無双の由、仰せ出だされ、仍りて我が朝九月十三夜を以て、明月の夜と為す。
-
『玉勝間』六の巻 鳥羽殿にて逐日看花歌を講ぜらるる事同じ記に云う、嘉保三年三月一日、午の時ばかり、鳥羽殿に参る、云云。秉燭の後、御遊有り、云云。この間人々、且つ和歌を進む(題者は江中納言、申の時以後出さるるなり、逐日看花)。常に祗候する殿上人十余人、ただ別に召さるる者は、皇大后宮権大夫と下官とばかりなりと聞く。時に庭の桜紛々、岸の柳依々、歌笛の声、誠に幽興に入る。御遊の後、下官を召して講師と為す。序者は院の蔵人縫殿助藤実光(秀才)。春日鳥羽院に侍りて、逐日看花の応製和歌一首を詠む、臣上の字は皆共にするなり。但し他人はただ和歌ばかりを詠み、臣上の字を書かず。中宮大夫読師と為る。漸く和歌を講ずるの処、中宮大夫の歌と、顕季朝臣の歌と、一字も誤らず相合う。また女房の歌三首、色の薄様に書く。講じ了りて、座を立たんと欲する処、勅有りて仰せられて云う、近日毎日、この和歌の興有り、御製の講師、他人を用いるべからず、汝同じく勤仕すべし、と。則ち仰せを奉り、また座に復す。御製を披見し、講ずるの処、已に愚歌に合う。天気咲わしめ御し、満座の人奇と為す。一つには面目なり、愚慮を以て高情に及ぶ。一つには恐畏なり、拙詞を以て御製に叶う。進退これ谷まり、身心度を失う。已に深更に及びて事了る。人々退出す。治部卿と同車して帰洛す(下官の歌に云う、ふくかぜにちりくるはなもみるひとのひかずもともにつもるはるかな。御製に叶うに依りて、書き留めらるるなり)。御製に云う(さきしよりちるまでみればこのもとにはなもひかずもつもるなりけり)。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る