玉勝間 / 一の巻 吉田兼倶卿日本紀御談義の事
同じ記に曰く、文明十二年十月廿一日、今日於禁裏日本紀御談義、兼倶卿申之、云云頃之兼倶卿參、先有御談義、(日本紀卷本)次於黑戶有御談義、西面上壇、主上御座、(南面)次壇中程、兼倶卿候、(北面)日本紀(草紙本)置小机上讀申之、先兼倶卿參之後、聽衆參進、(此間公卿たちの名略けり)等同間左右相分參候殿上人(名ども略く)等在下壇也、自御前不見所也、直垂衆於西小庭聽聞、云云兼倶卿候所事、兼而可爲簀子之由被定之處、以列申所存之間、臨期被改者也、今日端四五行可申分、致文字讀之處、不慮經刻之間、日本書紀卷第一神代上、此十字許申之。また、同十一月廿六日、今日日本紀御談義也、氣段也、先中臣祓御傳受、他人不聞之。また十二月十四日、今日日本紀講尺結願也、云云就神秘御傳授、今日被仰賞。(從二位)また曰く、文龜二年正月十七日、參桃華坊、日本紀(神代下卷)談義也、侍從二位兼倶卿申之、同廿日、參一條殿、日本紀談義、今日終功、(下卷以上三ヶ度)神道事等多以申之。など見えたり。そのかみ兼倶ノ卿の日本紀を講じ申されけんほど、思ひやられたり。
新字:同じ記に曰く、文明十二年十月廿一日、今日於禁裏日本紀御談義、兼倶卿申之、云云頃之兼倶卿参、先有御談義、(日本紀巻本)次於黒戸有御談義、西面上壇、主上御座、(南面)次壇中程、兼倶卿候、(北面)日本紀(草紙本)置小机上読申之、先兼倶卿参之後、聴衆参進、(此間公卿たちの名略けり)等同間左右相分参候殿上人(名ども略く)等在下壇也、自御前不見所也、直垂衆於西小庭聴聞、云云兼倶卿候所事、兼而可為簀子之由被定之処、以列申所存之間、臨期被改者也、今日端四五行可申分、致文字読之処、不慮経刻之間、日本書紀巻第一神代上、此十字許申之。また、同十一月廿六日、今日日本紀御談義也、気段也、先中臣祓御伝受、他人不聞之。また十二月十四日、今日日本紀講尺結願也、云云就神秘御伝授、今日被仰賞。(従二位)また曰く、文亀二年正月十七日、参桃華坊、日本紀(神代下巻)談義也、侍従二位兼倶卿申之、同廿日、参一条殿、日本紀談義、今日終功、(下巻以上三ヶ度)神道事等多以申之。など見えたり。そのかみ兼倶ノ卿の日本紀を講じ申されけんほど、思ひやられたり。
書き下し
同じ記に曰く、文明十二年十月廿一日、今日禁裏に於いて日本紀の御談義、兼倶卿之を申す、云々。頃之兼倶卿参る、先ず御談義有り(日本紀巻本)、次に黒戸に於いて御談義有り、西面の上壇、主上御座(南面)、次の壇の中程、兼倶卿候す(北面)、日本紀(草紙本)小机の上に置きて之を読み申す、先ず兼倶卿参るの後、聴衆参進す、(この間公卿たちの名略けり)等、同じ間に左右に相分かれて参候す、殿上人(名ども略く)等は下壇に在るなり、御前より見えざる所なり、直垂衆は西の小庭に於いて聴聞す、云々。兼倶卿の候する所の事、兼ねて簀子たるべきの由定めらるるの処、列を以て所存を申すの間、期に臨みて改めらるる者なり、今日は端の四五行を申し分くべし、文字読みを致すの処、不慮に刻を経るの間、日本書紀巻第一神代上、此の十字許り之を申す。また、同十一月廿六日、今日日本紀御談義なり、気段なり、先ず中臣祓の御伝受、他人之を聞かず。また十二月十四日、今日日本紀講尺結願なり、云々。神秘御伝授に就きて、今日賞を仰せらる(従二位)。また曰く、文亀二年正月十七日、桃華坊に参る、日本紀(神代下巻)談義なり、侍従二位兼倶卿之を申す、同廿日、一条殿に参る、日本紀談義、今日功を終う(下巻以上三ヶ度)、神道の事等多く以て之を申す。など見えたり。そのかみ兼倶の卿の日本紀を講じ申されけんほど、思いやられたり。
現代語訳
同じ日記にこうある。「文明十二年十月二十一日。今日、禁裏で日本紀の御談義があり、兼倶卿(吉田兼倶)がこれを講じた。しばらくして兼倶卿が参った。まず御談義があり(日本紀は巻物の本)、次に黒戸の御所で御談義があった。西向きの上段に主上がお座りになり(南向き)、次の段の中ほどに兼倶卿が控え(北向き)、日本紀(冊子本)を小机の上に置いて読み申し上げた。まず兼倶卿が参った後、聴衆が進み出た。(この間の公卿たちの名は略した)らは同じ間に左右に分かれて控え、殿上人(名は略す)らは下の段にいる。御前からは見えない所である。直垂姿の者たちは西の小庭で聴聞した。兼倶卿の控える所については、あらかじめ簀子(縁側)とすると定められていたが、列の順について考えを申し立てたので、直前になって改められたのである。今日は冒頭の四、五行を講じ分けるはずであったが、文字読みをしているうちに思いがけず時が過ぎたので、『日本書紀巻第一神代上』というこの十字ほどを講じただけであった。」また「同十一月二十六日。今日は日本紀の御談義である。……まず中臣祓の御伝授があり、他の人はこれを聞かなかった。」また「十二月十四日。今日は日本紀の講釈の結願である。神秘の御伝授について、今日、褒賞を仰せ出された(従二位)。」また「文亀二年正月十七日。桃華坊(一条家)に参った。日本紀(神代下巻)の談義である。侍従二位兼倶卿が講じた。同二十日、一条殿に参った。日本紀談義、今日で終わった(下巻をこれで三度)。神道のことなどを多く講じた。」などと見える。その昔、兼倶卿が日本紀を講じ申し上げたときの様子が思いやられる。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 神拝口伝といふ事同記に云う、文明十二年十二月二日、吉田社に参詣す、兼倶卿の宿所咫尺の間、立ち寄りて日本紀御談義に参る事を賀す、対面して相語りて云う、神拝口伝の事、諸家競いて御尋ね有り、然るに此の六七十年以来、一向に問わるる事無し、諸家敬神無きか云々、余は敬神他に異なる以来、次いで授くべしと云々、則ち之を口伝す。三日、状を吉田神主に遣わす、昨日の面談、千載一遇たり候、殊に神拝御口伝の事、深く心中に秘し候、恩許手足の舞踏を知らず候、欣悦の余り、重ねて参り申すべきの処、遅々、先ず短章を献じ候、何様連々神道の事、御指南を仰ぐべく候、恐々謹言、宣胤、十二月三日、吉田殿。
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさま神の御典を説く事、むかしは紀伝道の儒者の職にて、その説ける書、弘仁より代代の、日本紀私記これなり。そはいずれも、ただ漢学の余力をもて考えたるのみにして、神の御典をもはら学びたるものに有らざるが故に、古の意詞にくらく、すべてういういしく浅はかにて、もとより道の旨趣も、いかなるさまとも、説きたる事無く、唯だ文によりて、有るべきままに云えるばかりなり。然れども皇朝の昔の儒者は、すべてから国のように、己が殊にたてたる心は無かりし故に、神の御ふみを説くとても、漢意に説きまげたる、私説もおさおさ見えず、儒意によれる強説も無くて、やすらかには有りしを、後の世に至りては、殊に神学と云う一ながれ出来て、もはらにするともがらし有れば、つぎつぎに委しくはなりもて行けど、なべての世の物知り人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみを説く者も、さかしらを先にたてて、文のままには物せず、おのが好むすじに引きつけて、或るは仏意、或るは儒意に、説き曲ぐる事となれり。
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『玉勝間』十三の巻 竟宴竟宴と云うこと日本紀にのみならず、承和十四年五月には、荘子の竟宴、清涼殿にて行われ、貞観二年十二月には、孝経の竟宴あり。同十七年四月には、群書治要の竟宴、綾綺殿にて有り。同十八年七月には、顔氏家訓の竟宴、蔵人所にてあり。史どもに見えたり。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』一の巻 わたくしに記せる史世におおやけの史にはあらで、私に御代御代の事を記せる書、これかれと多かるを、昔の皇国人は、仏を尊ばぬは一人も無かりしかば、斯かる書にさえ、ともすればようなき仏ざたのまじりて、うるさく、今見るには、かたわらいたき事多し。またさかしら心に、神代にはあやしき事のみ多くして、からめかぬをいといて、多くは神武天皇より始めてしるして、神代の程をばはぶけるは、から国のむねむねしき書に、さるたぐいの有るを、善き事と思いて、ならえる物なり。そもそも外国々は、その王のすじ、定まれる事無くして、世々に変われば、心にまかせて、いづれの代より記さむも難無きを、御国の皇統は、さらに外国の王のたぐいにはましまさず、天照大御神の天津日嗣にましまして、天地と共に、とこしえに伝わらせ給うを、その本の始めをはぶき捨てて、なからより記して善からめや。万づをから国にならうも、事によりては、心すべきわざぞかし。
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うひ山ぶみ・注[ニ]主(ムネ)としてよるべきすぢは幸とも幸なれば、いかにも此たふとき皇国の道を学ぶべきは、勿論のこと也此道は、古事記書紀の二典に記されたる云々、道は此二典にしるされたる、神代のもろもろの事跡のうへに備はりたれども、儒仏などの書のやうに、其道のさまを、かやうかやうと、さして教へたることなければ、かの儒仏の書の目うつしにこれを見ては、道の趣、いかなるものともしりがたく、とらへどころなきが如くなる故に、むかしより世々の物しり人ども、これをえとらへず、さとらずして、或は仏道の意により、或は儒道の意にすがりて、これを説たり、其内昔の説は、多く仏道によりたりしを、百五六十年以来は、かの仏道によれる説の、非なることをばさとりて、其仏道の意をば、よくのぞきぬれども、その輩の説は、又皆儒道の意に落入て、近世の神学者流みな然也、其中にも流々有て、すこしづゝのかはりはあれども、大抵みな同じやうなる物にて、神代紀をはじめ、もろもろの神典のとりさばき、たゞ陰陽八卦五行など、すべてからめきたるさだのみにして、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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