玉勝間 / 六の巻 業平ノ朝臣の月やあらぬてふ歌のこころ
去年に似ぬとは、月春の似ぬにはあらず、見る我がここちの、去年に似ぬなり。新古今集雜上に、清原ノ深養父の、「むかし見し春は昔の春ながら我身ひとつのあらずも有かな、と詠める歌は、此ノ業平ノ朝臣の歌を、註したるが如し。これにて、よく聞えたる物をや。
新字:去年に似ぬとは、月春の似ぬにはあらず、見る我がここちの、去年に似ぬなり。新古今集雑上に、清原ノ深養父の、「むかし見し春は昔の春ながら我身ひとつのあらずも有かな、と詠める歌は、此ノ業平ノ朝臣の歌を、註したるが如し。これにて、よく聞えたる物をや。
書き下し
去年に似ぬとは、月春の似ぬにはあらず、見る我がここちの、去年に似ぬなり。新古今集雑上に、清原の深養父の、「むかし見し春は昔の春ながら我が身ひとつのあらずも有るかな」と詠める歌は、この業平の朝臣の歌を、註したるがごとし。これにて、よく聞こえたる物をや。
現代語訳
「去年に似ない」というのは、月や春が去年に似ないのではなく、それを見ている自分の心地が去年に似ないのである。新古今集の雑歌上に、清原深養父が「昔見た春は昔の春のままなのに、我が身ひとつだけが昔のようではないことよ」と詠んだ歌は、この業平朝臣の歌に注を付けたようなものだ。これでよく意味が通じるではないか。
解説
前段の業平の歌の解釈を、別の歌によって確かめた結びである。伊勢物語の「去年に似るべくもあらず」は、景色が変わったのではなく、見る自分の心が変わったのだ、と押さえる。そのうえで、清原深養父の歌が業平の歌の含みをそのまま言葉にしたような作であることを示し、自説の証とする。深養父は清少納言の曽祖父にあたる、古今集時代の歌人である。後の歌人が先の歌をどう受け取ったかを、そのまま古い注釈として使う手法は、宣長が古歌を読むときにしばしば用いたものである。景色は同じでも見る者が変われば世界が違って見える、という業平の嘆きは、大切な人を失った経験のある者なら誰にも覚えがあるだろう。
関連する章句
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