導師導古典を学びたいすべての人に

玉勝間 / 六の巻 巻頭からあゐ六

おのが歌に、からあゐの末つむ花、と詠めりければ、或る人、すゑつむ花は、くれなゐのとこそ詠みたれ、からあゐのとはいかが、と云へるに、おのれ答へけらく。萬葉集の歌に、くれなゐを、からあゐとも詠めり。そもそもくれなゐと云ふは、此物もと吳の國より、渡りまうできたるよしにて、吳の藍と云ふを、つづめたる名なるを、そは韓國より傳へつる故に、又韓藍とも云へるなり、と云へる說の如し。但しからと云ふは、西の方の國國のなべての名なれば、これは吳ノ國を指して云へるにて、吳藍と云ふと同じ事にも有るべし。さるを萬葉の十一の卷には、鷄冠草とも書るにつきて、鴨頭草なりとも、鶏頭花なりとも云ふ、說どもの有てまぎらはしきやうなれども、つき草とも、鷄頭花とも云ふは、皆ひが事にて、紅花なること疑ひ無し。さればからあゐ即ち紅花なる事を、さとしがてら、殊更に斯くは詠めるぞ。ついでに云はむ、同七の卷に、「秋さらば移しもせんと我が蒔きしからあゐの花を誰れか摘みけん。移すとは、おろして染るを云ふ。此移ノ字を、本に影に誤れり、と云へりければ、うなつきて止みぬ。

新字:おのが歌に、からあゐの末つむ花、と詠めりければ、或る人、すゑつむ花は、くれなゐのとこそ詠みたれ、からあゐのとはいかが、と云へるに、おのれ答へけらく。万葉集の歌に、くれなゐを、からあゐとも詠めり。そもそもくれなゐと云ふは、此物もと呉の国より、渡りまうできたるよしにて、呉の藍と云ふを、つづめたる名なるを、そは韓国より伝へつる故に、又韓藍とも云へるなり、と云へる説の如し。但しからと云ふは、西の方の国国のなべての名なれば、これは呉ノ国を指して云へるにて、呉藍と云ふと同じ事にも有るべし。さるを万葉の十一の巻には、鶏冠草とも書るにつきて、鴨頭草なりとも、鶏頭花なりとも云ふ、説どもの有てまぎらはしきやうなれども、つき草とも、鶏頭花とも云ふは、皆ひが事にて、紅花なること疑ひ無し。さればからあゐ即ち紅花なる事を、さとしがてら、殊更に斯くは詠めるぞ。ついでに云はむ、同七の巻に、「秋さらば移しもせんと我が蒔きしからあゐの花を誰れか摘みけん。移すとは、おろして染るを云ふ。此移ノ字を、本に影に誤れり、と云へりければ、うなつきて止みぬ。

書き下し

おのが歌に、からあいの末つむ花、と詠めりければ、或る人、すえつむ花は、くれないのとこそ詠みたれ、からあいのとはいかが、と云えるに、おのれ答えけらく。万葉集の歌に、くれないを、からあいとも詠めり。そもそもくれないと云うは、この物もと呉の国より、渡りもうできたるよしにて、呉の藍と云うを、つづめたる名なるを、そは韓国より伝えつる故に、また韓藍とも云えるなり、と云える説のごとし。但しからと云うは、西の方の国々のなべての名なれば、これは呉の国を指して云えるにて、呉藍と云うと同じ事にも有るべし。さるを万葉の十一の巻には、鶏冠草とも書けるにつきて、鴨頭草なりとも、鶏頭花なりとも云う、説どもの有りてまぎらわしきようなれども、つき草とも、鶏頭花とも云うは、皆ひが事にて、紅花なること疑い無し。さればからあい即ち紅花なる事を、さとしがてら、殊更にかくは詠めるぞ。ついでに云わむ、同七の巻に、「秋さらば移しもせんと我が蒔きしからあいの花を誰か摘みけん」。移すとは、おろして染むるを云う。この移の字を、本に影に誤れり、と云えりければ、うなずきて止みぬ。

現代語訳

私の歌に「からあいの末摘花」と詠んだところ、ある人が「末摘花は『くれないの』と詠むものだ。『からあいの』とはどういうことか」と言ったので、私はこう答えた。万葉集の歌に、くれない(紅)を「からあい」とも詠んでいる。そもそも「くれない」というのは、この物がもと呉の国から渡来したので、「呉の藍(くれのあい)」を縮めた名であり、それが朝鮮の国を経て伝わったので、また「韓藍(からあい)」とも言ったのだ、という説のとおりである。ただし「から」というのは西方の国々をおしなべて呼ぶ名だから、これは呉の国を指して言ったもので、「呉藍」と言うのと同じことでもあろう。ところが万葉集の巻十一には「鶏冠草」とも書いてあるのにつられて、鴨頭草(つゆくさ)だとも、鶏頭花だともいう説があって紛らわしいようだが、つき草だとも鶏頭花だとも言うのはみな誤りで、紅花であることは疑いない。だから「からあい」がすなわち紅花であることを、人に悟らせるついでに、ことさらにこう詠んだのである。ついでに言っておこう。同じ巻七に「秋になったら移し染めにもしようと私が蒔いたからあいの花を、誰が摘んでしまったのだろう」という歌がある。「移す」とは、花を摘みおろして染めることをいう。この「移」の字を、本によっては「影」と誤っている、と言ったところ、その人はうなずいて引き下がった。

解説

自作の一語をとがめられた宣長が、万葉集を根拠に答えた問答である。末摘花は紅花の異名で、ふつうは「くれないの末摘花」と詠む。宣長はあえて「からあいの」と置いた。万葉集では紅を「からあい(韓藍)」とも詠んでおり、それが紅花を指すことを、歌を通して人に知らせたかったのだという。鶏冠草という表記に引かれて、つゆくさ説や鶏頭説が出ていたのを、宣長ははっきり退けている。歌を作ることが、そのまま古語の考証の実践になっている点が国学者らしい。慣用に外れた言葉を使うには、裏付けと意図が要る。とがめられたときに答えられるだけの根拠を持って言葉を選ぶ、という態度として読める。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る