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玉勝間 / 二の巻 又立田川

立田川と云ふは、前の卷にいへる如く、山崎川の事なるを、そは今いづれの川ならむ。かのわたりの事、よくも知らで、年ごろいぶかしかりつるを、ことし寬政五年三月、京より大坂に下れるかへるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、此川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀨川をおきては、川ひとつも無し。さてつらつら考るに、水無瀨川と云ふは、後の名にて、此河ぞ古への立田川なるべき。此川、山崎と水無瀨とのさかひにあり。山城ノ國と津ノ國との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津ノ國島ノ上ノ郡になん有ける。今は狹き河なれど、かなたこなたの堤高くて、水はよろしきほどの流れなるを思ふに、古、はややひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくは成しつるなるべし。さて立田川に詠み合せたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城ノ國乙訓ノ郡、自玉手祭來酒解神社、(名神大月次新嘗)これを續後紀又臨時祭式などに、山崎ノ神ともあれば、此神社によりたる名にて、すなはち山崎山の事にぞあるべき。此社は、すなはち今の山崎天王なりとも云へり。

新字:立田川と云ふは、前の巻にいへる如く、山崎川の事なるを、そは今いづれの川ならむ。かのわたりの事、よくも知らで、年ごろいぶかしかりつるを、ことし寛政五年三月、京より大坂に下れるかへるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、此川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀨川をおきては、川ひとつも無し。さてつらつら考るに、水無瀨川と云ふは、後の名にて、此河ぞ古への立田川なるべき。此川、山崎と水無瀨とのさかひにあり。山城ノ国と津ノ国との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津ノ国島ノ上ノ郡になん有ける。今は狭き河なれど、かなたこなたの堤高くて、水はよろしきほどの流れなるを思ふに、古、はややひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくは成しつるなるべし。さて立田川に詠み合せたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城ノ国乙訓ノ郡、自玉手祭来酒解神社、(名神大月次新嘗)これを続後紀又臨時祭式などに、山崎ノ神ともあれば、此神社によりたる名にて、すなはち山崎山の事にぞあるべき。此社は、すなはち今の山崎天王なりとも云へり。

書き下し

立田川と云うは、前の巻にいえる如く、山崎川の事なるを、そは今いずれの川ならむ。かのわたりの事、よくも知らで、年ごろいぶかしかりつるを、ことし寛政五年三月、京より大坂に下れるかえるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、この川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀬川をおきては、川ひとつも無し。さてつらつら考うるに、水無瀬川と云うは、後の名にて、この河ぞ古の立田川なるべき。この川、山崎と水無瀬とのさかいにあり。山城の国と津の国との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津の国島の上の郡になん有りける。今は狭き河なれど、かなたこなたの堤高くて、水はよろしきほどの流れなるを思うに、古はややひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくは成しつるなるべし。さて立田川に詠み合わせたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城の国乙訓の郡、玉手より祭り来る酒解神社、(名神大月次新嘗)これを続後紀また臨時祭式などに、山崎の神ともあれば、この神社によりたる名にて、すなわち山崎山の事にぞあるべき。この社は、すなわち今の山崎天王なりとも云えり。

現代語訳

立田川というのは、前の巻で述べたように山崎川のことであるが、それは今のどの川であろうか。あのあたりのことをよく知らないので、長年いぶかしく思っていたが、今年寛政五年(1793)三月、京から大坂へ下った帰りに、山崎の岸に船を寄せて降り、そのあたりを見て回り、この川のことも尋ねたところ、山崎から向こうには、水無瀬川をのぞいては川は一つもない。そこでよくよく考えると、水無瀬川というのは後の名であって、この川こそ古の立田川であろう。この川は山崎と水無瀬との境にある。山城国と摂津国との境は川より少しこちら側で、川は摂津国島上郡に属していた。今は狭い川だが、両岸の堤が高く、水はほどよい流れであるのを思うと、昔はもう少し広く流れていたのを、後に堤を高く築いて、今のように狭くしたのであろう。さて立田川と取り合わせて詠まれた神なび山・神なびの杜は、延喜式神名帳にある山城国乙訓郡の「玉手より祭り来る酒解神社(名神大社、月次・新嘗の祭に与る)」のことで、これを『続日本後紀』や臨時祭式などに山崎の神ともあるので、この神社にちなんだ名であり、つまり山崎山のことであろう。この社は今の山崎天王であるとも言われている。

解説

古歌に名高い立田川は大和の竜田川ではなく山崎の川だ、という自説を、宣長が現地に足を運んで確かめた記録である。寛政五年、大坂からの帰りに山崎で船を降り、あたりを歩いて、川は水無瀬川一つしかないことを確かめた。そこから、水無瀬川は後の名で、これが古の立田川だと推す。今の川幅が狭いのは堤を高く築いたからだろうという観察も添える。さらに立田川と一緒に詠まれる神なびの杜を、神名帳の酒解神社、今の山崎天王に当てる。書物で立てた説を、実地の見聞と神名帳・国史の記事で裏付けていく手順がよく見える。松坂で医業と講義に追われた宣長が、旅の帰り道も考証の場にしていたことがわかる段である。

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