玉勝間 / 五の巻 みちの国 むつ
美知乃久にて、陸奧は、歌にも詠む如く、和名抄には美知乃於久と有りて、道之奧と云ふ意の名なれば、下に國と添へて云ふ時は、美知乃久乃久爾なり。然るを中昔の物語書などには、みちの國とのみ云へるは、みみちのくのくにと云ひては、乃久と云ふことの重なりて、わづらはしきままに、乃久をはぶきて、云ひならへるなるべし。さるを又後には、むつの國と云ふは、みちの國を訛れるものなるを、陸の字、數の六ノ字と通はし用ふる事あれば六の意と心得たる人も有めれど、さには有らず。また昔は、みちの國とこそ云へれ、みちとのみ云へる事は無かりしを、今は唯だむつとのみ云ひあへるは、むげに本を失へることなりかし。
新字:美知乃久にて、陸奥は、歌にも詠む如く、和名抄には美知乃於久と有りて、道之奥と云ふ意の名なれば、下に国と添へて云ふ時は、美知乃久乃久爾なり。然るを中昔の物語書などには、みちの国とのみ云へるは、みみちのくのくにと云ひては、乃久と云ふことの重なりて、わづらはしきままに、乃久をはぶきて、云ひならへるなるべし。さるを又後には、むつの国と云ふは、みちの国を訛れるものなるを、陸の字、数の六ノ字と通はし用ふる事あれば六の意と心得たる人も有めれど、さには有らず。また昔は、みちの国とこそ云へれ、みちとのみ云へる事は無かりしを、今は唯だむつとのみ云ひあへるは、むげに本を失へることなりかし。
書き下し
美知乃久にて、陸奥は、歌にも詠むごとく、和名抄には美知乃於久と有りて、道の奥と云う意の名なれば、下に国と添えて云う時は、美知乃久乃久爾なり。然るを中昔の物語書などには、みちの国とのみ云えるは、みちのくのくにと云いては、のくと云うことの重なりて、わずらわしきままに、のくをはぶきて、云いならえるなるべし。さるを又後には、むつの国と云うは、みちの国を訛れるものなるを、陸の字、数の六の字と通わし用うる事あれば六の意と心得たる人も有めれど、さには有らず。また昔は、みちの国とこそ云えれ、みちとのみ云える事は無かりしを、今はただむつとのみ云いあえるは、むげに本を失えることなりかし。
現代語訳
(陸奥は)「みちのく」であって、陸奥は、歌にも詠むとおり、『和名抄』には「みちのおく」とあって、「道の奥」という意味の名なので、下に「国」を添えて言うときは「みちのくのくに」である。ところが中古の物語の書などで「みちの国」とだけ言っているのは、「みちのくのくに」と言うと「のく」という音が重なってわずらわしいので、「のく」を省いて言い慣わしたのであろう。それをまた後には「むつの国」と言うのは、「みちの国」がなまったものなのに、「陸」の字を数の「六」の字と通わせて用いることがあるので、「六」の意味と心得ている人もいるようだが、そうではない。また昔は「みちの国」と言ったのであって、「みち」とだけ言ったことはなかったのに、今はただ「むつ」とだけ言い合っているのは、すっかり本来の姿を失ったことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 みちのくの名所陸奥の国の事どもを記せる物に、宮城郡に利府村と云う有り、仙台より原町通り三里廿八町余あり。その利府村のならびなる高野村と云うに、とうが菅とて名菅あり。その村の田の中に、二三間四方垣を結いめぐらして、里の百姓、国主の命によりて、預り居るなり。古歌に「玉篠に霰たばしる音きけばいとどぞさゆるとうの菅ごもと云えり。また塩竈六社大明神、仙台より四里半ばかり有り。この国にて最大社なり、その宮の下に、塩焼竈と云うあり、大きなる円盆のごとし、この物の中に、つねに潮九分目ばかり有りて、いかなる旱にも減る事無く、また洪水のおりも増すこと無く、同じことなり。いとあやしき物なり。海ぎわより三四町ばかり離れて、市中石段の上いがきの内に、五つ並びてあり。もとは六つ有りしに、一つは海へ沈みしとぞ。その所を今釜が淵と云うなりと云えり。また名取川、仙台近き大道の内にて、中田の宿と長町の宿との間に有り、広さ四十六間ありと云えり。また緒絶川、仙台より南部へゆく大道にて、古川宿と荒谷の宿との間に有り、橋は長さ八間広さ二間と云えり。また桜川、同じ大道にて、一の関の宿と前沢宿との間に有りと云えり。
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『玉勝間』二の巻 国を州と云ふ事国国の名を、某州と云う事は、いずれの御代の御さだめにもあらざる事なり。古は、わたくしの漢文などにこそは、いとまれまれには見えたれ、ただしきおおやけの物には、みな某国とのみ有りて、州と云える事はさらに見えず。然るを近き世の人は、かかる上の御さだめをもわきまえ知らず、みだりにからめかす事をのみ好みて、某の国と云うよりは、某州と云うをうるわしき事に心得て、云いも書きもすなるは、いかにぞや。前後上下などに分かれたる国の名の、一字にてはまぎるるをば、野之上州下州、あるは越前州筑後州なども書くめり。そもそも国の字も州の字も、同じく久爾にはあれども、奈良の御代などよりは、斯かる事もみな、その文字を定められて、心にまかせては書かざる事なるをや。またある儒者の云えるは、国と云うは、封建の制にこそあれ皇朝も、郡県の制になされたる世には、州などとこそ云うべけれ、国と定められたるは、あたらぬ文字なりと云えるは、漢国の今までの例になずみて、なかなかにかの国のこころにもあらず、いみしきひがことなり。
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『玉勝間』八の巻 中国山陰道山陽道の国々を中国と云うこと、元慶二年二月三日の官符に、伏して物情を尋ぬるに、陸奥出羽の遠国に在るすら、尚五年を限る、因幡出雲の中国に居る、何ぞ六年を得ん、とあり。類聚三代格にのれり。
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『玉勝間』六の巻 峠同じ百首に、「あしがらの山の峠に今日きてぞ富士の高根のほどは知らるる、峠と詠めり。この字は、後の人の書けるにも有るべけれど、とうげと詠める故にかく書けるなり。日向をひゅうが、多武峰をとうのみねと云う音便の、同じ例にて、手向を、そのかみ早くとうげと云いしなり。
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『玉勝間』五の巻 和泉の和ノ字の事国名のいずみを、和泉と書く。和の字は、いかなる故をもて、添えられたるにか、年頃いぶかしかりつるを、つらつら思えば、まずいずみと云うは、和泉郡ありて、上泉、下泉ちょう郷も有れば、そこより出でたる国の名なる事は、論無し。斯くてその郷の内、府中村と云うに、今も和泉の井とて、いとめでたき清水有りて、そこに泉の井の上の神社、和泉の神社なども有りて、式にも見ゆ。然るに並河氏が書ける和泉志を見れば、この和泉の井を挙げて、その水清く且つ甘しと記せるをもて思えば、この清水、上つ代よりいと清くて、甘かりし故に、にぎいずみと号けて、和泉と書きたりしを、その里人などは、ただ泉とのみ云いならえるが、ひろごりて、名高き水なれば、京人なども、泉とのみ云いあえりしままにて、郡の名にも、国の名にも成れるを、すべて国郡などの名、二字に書く事なる故に、文字には必ず、本の名のごとく、和泉とは書くなるべし。やまとの国も、語には常には、ただやまととのみ云うを、もじには必ず大の字を添えて、大和と書くと同じたぐいなり。されば和泉の和の字は、もとにぎ泉と云いけんゆえとぞ思わるる。
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『玉勝間』十の巻 畿内七道のよみ又郡司のよみ昔の片仮字には、ミをもアと書けること、書紀の訓などにも多く有りて、まぎらわしきなり。これ必ず差ありけむを、今は見分けがたくなりぬ。ヒウガシは、ひんがしと云うと同じ。こはもとひむかしにて、むは、たしかにむと云い、かも清みたる言なるを、音便にて、むをうとも、んとも云い、それに引かれて、かをも濁るなり。日向を、ひうがと云うも同じ。東山道を、ウメツミチ、北陸道を、ヤマノミチと有るは、後に写すとて、所を誤れるなり。ウメツミチは、東海道の読、ヤマノミチは、東山道の読なり。北山抄正し。さてウメツは、かのウベと同じくて、ベを通わしてメと云えるなり。北陸道を、クルガノミチと有る、クルガは、くぬがを唱え誤れるなるべし。くぬがは、今の世にも陸と云う、これなり。山陰道を止モノミチと有るは、止の上に、曾の字有りしが脱けたるなり。そもそも西宮記、おのが見たるかれこれの本どもは、みな上の件の如くなるを、写し誤りとおぼしき所どころは、善本今も有るべきなり。北山抄のかたは、すべて正しく見ゆ。その中に、北陸道に、キタノミチと云う読〓無きは、落ちたるにや。南海道西海道の例によるに、これも北の道とも云うべきなり。
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