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玉勝間 / 五の巻 業平ノ朝臣のいまはの言葉

古今集に、やまひして、弱くなりにける時詠める、なりひらの朝臣、「つひにゆく道とはかねて聞しかどきのふけふとは思はざりしを。契沖云はく、これ人のまことの心にて、教へにも善き歌なり。後後の人は、死なんとするきはに到りて、ことごとしき歌を詠み、或るは道をさとれるよしなど詠める、まことしからずして、いと憎し。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじへめ、いまはと有らん時にだに、心の誠にかへれかし。此朝臣は、一生のまこと、此歌に現はれ、後の人は、一生の僞をあらはして死ぬるなりと云へるは、法師のことばにも似ず、いといとたふとし。やまとだましひなる人は、法師ながら、斯くこそ有けれ。から心なる神道者歌學者、まさに斯うは云はんや。契沖法師は、世の人にまことを教へ、神道者、歌學者は、僞りをぞ教ふなる。

新字:古今集に、やまひして、弱くなりにける時詠める、なりひらの朝臣、「つひにゆく道とはかねて聞しかどきのふけふとは思はざりしを。契沖云はく、これ人のまことの心にて、教へにも善き歌なり。後後の人は、死なんとするきはに到りて、ことごとしき歌を詠み、或るは道をさとれるよしなど詠める、まことしからずして、いと憎し。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじへめ、いまはと有らん時にだに、心の誠にかへれかし。此朝臣は、一生のまこと、此歌に現はれ、後の人は、一生の偽をあらはして死ぬるなりと云へるは、法師のことばにも似ず、いといとたふとし。やまとだましひなる人は、法師ながら、斯くこそ有けれ。から心なる神道者歌学者、まさに斯うは云はんや。契沖法師は、世の人にまことを教へ、神道者、歌学者は、偽りをぞ教ふなる。

書き下し

古今集に、やまいして、弱くなりにける時詠める、なりひらの朝臣、「ついにゆく道とはかねて聞きしかどきのうきょうとは思わざりしを。契沖云わく、これ人のまことの心にて、教えにも善き歌なり。後々の人は、死なんとするきわに到りて、ことごとしき歌を詠み、或いは道をさとれるよしなど詠める、まことしからずして、いと憎し。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじえめ、いまはと有らん時にだに、心の誠にかえれかし。この朝臣は、一生のまこと、この歌に現れ、後の人は、一生の偽りをあらわして死ぬるなりと云えるは、法師のことばにも似ず、いといとたふとし。やまとだましいなる人は、法師ながら、斯くこそ有りけれ。から心なる神道者歌学者、まさに斯うは云わんや。契沖法師は、世の人にまことを教え、神道者、歌学者は、偽りをぞ教うなる。

現代語訳

古今集に、病気になって弱った時に詠んだ業平朝臣(在原業平)の歌、「最後には誰もが行く道だとは前から聞いていたけれど、それが昨日今日のこととは思わなかったのに」。契沖が言うには、「これは人の本当の心であって、教えとしても良い歌である。後々の人は、死のうとする際になって大げさな歌を詠んだり、あるいは道を悟った旨などを詠んだりするが、本当らしくなく、たいそう憎らしい。ふだんの時こそ、狂言綺語(飾った言葉)を交えもしようが、いよいよという時くらいは、心の誠に立ち返れ。この朝臣は一生の誠がこの歌に現れ、後の人は一生の偽りをあらわにして死ぬのである」と言っているのは、法師の言葉にも似ず、たいそう尊い。大和魂である人は、法師でありながら、このようであったのだ。漢意の神道者や歌学者が、まさかこうは言うまい。契沖法師は世の人に誠を教え、神道者や歌学者は偽りを教えるのである。

解説

在原業平の辞世と、それを評した契沖の言葉を引いて、宣長が深く共感した段である。「ついにゆく道とはかねて聞きしかど」、死はいつか来ると聞いてはいたが、まさか昨日今日とは思わなかった。悟りも覚悟もない、うろたえたままの歌である。契沖はこれを人の真心だと称え、死に際に大げさな悟りの歌を詠むのは偽りだと切り捨てた。宣長は、僧でありながら仏教的な悟りを飾らない契沖を、大和魂の人だと尊ぶ。宣長にとって大和魂とは、漢意の理屈で心を飾らず、ありのままの情を受け入れる心のことである。死を悲しむのは自然で、それを悟ったふりで覆うのは偽りだ、という死生観は宣長の思想の芯にある。強がらずに弱さを認める言葉の方が、かえって人の心を打つ。

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