玉勝間 / 四の巻 うはべをつくる世のならひ
うまき物くはまほしく、よききぬ着まほしく、よき家に住ままほしく、寳得ままほしく、人にたふとまれまほしく、命ながからまほしくするは、皆人の眞心なり。然るにこれらを皆よからぬ事にし、ねがはざるをいみしき事にして、すべてほしからず、ねがはぬ顔する者の、世に多かるは、例のうるさきいつはりなり。又世に先生などあふがるる物知り人、或るは上人などたふとまるる法師など、月花を見ては、あはれとめづる顔すれども、よき女を見ては、目にもかからぬかほして過るは、まことに然るにや。もし月花をあはれと見る情しあらば、ましてよき女には、などか目の移らざらむ。月花はあはれなり、女の色は目にもとまらずと云はんは、人とあらむ者の心にあらず、いみしきいつはりにこそ有けれ。しかは有れども、萬づにうはべを作りかざるは、なべての世のならひにし有れば、これらは、いつはりとて、さしもとがむべきには有らずなん。
新字:うまき物くはまほしく、よききぬ着まほしく、よき家に住ままほしく、宝得ままほしく、人にたふとまれまほしく、命ながからまほしくするは、皆人の真心なり。然るにこれらを皆よからぬ事にし、ねがはざるをいみしき事にして、すべてほしからず、ねがはぬ顔する者の、世に多かるは、例のうるさきいつはりなり。又世に先生などあふがるる物知り人、或るは上人などたふとまるる法師など、月花を見ては、あはれとめづる顔すれども、よき女を見ては、目にもかからぬかほして過るは、まことに然るにや。もし月花をあはれと見る情しあらば、ましてよき女には、などか目の移らざらむ。月花はあはれなり、女の色は目にもとまらずと云はんは、人とあらむ者の心にあらず、いみしきいつはりにこそ有けれ。しかは有れども、万づにうはべを作りかざるは、なべての世のならひにし有れば、これらは、いつはりとて、さしもとがむべきには有らずなん。
書き下し
うまき物くわまほしく、よききぬ着まほしく、よき家に住ままほしく、宝得ままほしく、人に尊まれまほしく、命ながからまほしくするは、皆人の真心なり。然るにこれらを皆よからぬ事にし、ねがわざるをいみしき事にして、すべてほしからず、ねがわぬ顔する者の、世に多かるは、例のうるさきいつわりなり。また世に先生などあおがるる物知り人、あるいは上人など尊まるる法師など、月花を見ては、あわれとめづる顔すれども、よき女を見ては、目にもかからぬかおして過ぐるは、まことに然るにや。もし月花をあわれと見る情しあらば、ましてよき女には、などか目の移らざらむ。月花はあわれなり、女の色は目にもとまらずと云わんは、人とあらむ者の心にあらず、いみしきいつわりにこそ有りけれ。しかは有れども、万づにうわべを作りかざるは、なべての世のならいにし有れば、これらは、いつわりとて、さしもとがむべきには有らずなん。
現代語訳
うまい物を食べたい、よい着物を着たい、よい家に住みたい、財を得たい、人に尊ばれたい、長生きしたい——これらはみな人の真心である。ところがこれらをすべて良くないこととし、望まないことを立派なこととして、何も欲しくない、望まないという顔をする者が世に多いのは、いつもの煩わしい偽りである。また世に先生などと仰がれる物知りや、上人などと尊ばれる法師が、月や花を見ては感じ入る顔をしながら、美しい女を見ては目にも入らない顔で通り過ぎるのは、本当にそうなのか。もし月花を感じ入って見る情があるなら、まして美しい女に目が移らないはずがない。月花は趣深いが女の色は目にもとまらない、などと言うのは、人である者の心ではない。ひどい偽りである。とはいえ、何事につけ上辺を取り繕うのは世の常なのだから、これらを偽りだといって咎めるほどのことでもない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひすべて何事も、なべての世の人の真心にさかいて、ことなるを善き事にするは、外国のならいのうつれるにて、心を作り飾れる物と知るべし。
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『呻吟語』外篇・治道・純王の心有りて、方に純王の政有り只だ己むを容れざるの真心有らば、自ら易ふ可からざるの良法有り。其の之に處すること未だ當たらざる者は、必ず其の之を思ふこと精しからざる者なり。其の之を思ふこと精しからざる者は、必ず其の心の切ならざる者なり。故に純王の心有りて、方に純王の政有り。
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『玉勝間』一の巻 学問して道を知る事学問して道を知らむとならば、まづ漢意をきよくのぞき去るべし。から意のきよくのぞこらぬ程は、いかに古書を読みても考えても、古の意は知りがたく、古の心を知らでは、道は知りがたきわざになむ有りける。そもそも道は、もと学問をして知る事にはあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有りける。真心とは、善くも悪しくも、生まれつきたるままの心を云う。然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみ移りて、真心をば失いはてたれば、今は学問せざれば、道をえ知らざるにこそ有れ。
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひ人の心は、うれしき事は、さしも深くは覚えぬものにて、ただ心にかなわぬ事ぞ、深く身にしみては覚ゆるわざなれば、すべてうれしきを詠める歌には、心深きは少なくて、心にかなわぬすじを、悲しみ憂えたるに、哀れなるは多きぞかし。然りとて、わびしく悲しきを、みやびたりとてねがわむは、人のまことの情ならめや。また同じ法師の、人はよそじに足らで死なむこそ、めやすかるべけれと云えるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にも詠み、常にも云うすじにて、命長からん事をねがうをば、心ぎたなき事とし、早く死ぬるを、めやすき事に云い、この世をいとい捨つるを、いさぎよき事とするは、これみな仏の道にへつらえるものにて、多くはいつわりなり。言にこそさも云え、心のうちには、誰かはさは思わむ。たとい、まれまれには、まことに然か思う人の有らんも、もとよりの真心には有らず、仏の教えにまどえるなり。人のまごころは、いかにわびしき身も、早く死なばやとは思わず、命惜しまぬ者は無し。されば万葉などの頃までの歌には、ただ長く生きたらん事をこそねがいたれ、中頃よりこなたの歌とは、その心うらうえなり。
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『玉勝間』五の巻 業平ノ朝臣のいまはの言葉古今集に、やまいして、弱くなりにける時詠める、なりひらの朝臣、「ついにゆく道とはかねて聞きしかどきのうきょうとは思わざりしを。契沖云わく、これ人のまことの心にて、教えにも善き歌なり。後々の人は、死なんとするきわに到りて、ことごとしき歌を詠み、或いは道をさとれるよしなど詠める、まことしからずして、いと憎し。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじえめ、いまはと有らん時にだに、心の誠にかえれかし。この朝臣は、一生のまこと、この歌に現れ、後の人は、一生の偽りをあらわして死ぬるなりと云えるは、法師のことばにも似ず、いといとたふとし。やまとだましいなる人は、法師ながら、斯くこそ有りけれ。から心なる神道者歌学者、まさに斯うは云わんや。契沖法師は、世の人にまことを教え、神道者、歌学者は、偽りをぞ教うなる。
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『玉勝間』一の巻 からごころ漢意とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみを云うにあらず。大かた世の人の、万の事の善悪是非を論い、物の理を定め云うたぐい、すべてみな漢籍の趣なるを云うなり。さるはからぶみを読みたる人のみ、然るにはあらず。書と云う物一つも見たる事無き者までも、同じ事なり。そもからぶみを読まぬ人は、さる心には有るまじきわざなれども、何わざも漢国を善しとして、彼れをまねぶ世のならい、千年にも余りぬれば、おのづからその意世の中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地と成れる故に、我はから心もたらずと思い、これはから意にあらず、当然の理なりと思う事も、なお漢意をはなれ難きならいぞかし。そもそも人の心は、皇国も外国も、ことなる事無く、善悪是非に二つ無ければ、別に漢意と云う事、有るべくもあらずと思うは、一わたりさることのようなれど、然か思うもやがてから心なれば、とにかくにこの意は、のぞこりがたき物になむ有りける。人の心の、いづれの国もことなる事無きは、本の真心こそ有れ、からぶみに云える趣は、皆かの国人のこちたきさかしら心もて、いつわりかざりたる事のみ多ければ、真心にあらず。
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