玉勝間 / 四の巻 兼好法師が詞のあげつらひ
人の心は、うれしき事は、さしも深くは覺えぬものにて、ただ心にかなはぬ事ぞ、深く身にしみては覺ゆるわざなれば、すべてうれしきを詠める歌には、心深きは少くて、心にかなはぬすぢを、悲しみ憂へたるに、哀れなるは多きぞかし。然りとて、わびしく悲しきを、みやびたりとてねがはむは、人のまことの情ならめや。又同じ法師の、人はよそぢに足らで死なむこそ、めやすかるべけれと云へるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にも詠み、常にも云ふすぢにて、命長からん事をねがふをば、心ぎたなき事とし、早く死ぬるを、めやすき事に云ひ、此世をいとひ捨つるを、いさぎよき事とするは、これみな佛の道にへつらへるものにて、多くはいつはりなり。言にこそさも云へ、心のうちには、誰れかはさは思はむ。たとひまれまれには、まことに然か思ふ人の有らんも、もとよりの眞心には有らず、佛の敎へにまどへるなり。人のまごころは、いかに佗びしき身も、早く死なばやとは思はず、命をしまぬ者は無し。されば萬葉などの頃までの歌には、ただ長くいきたらん事をこそねがひたれ、中頃よりこなたの歌とは、その心うらうへなり。
新字:人の心は、うれしき事は、さしも深くは覚えぬものにて、ただ心にかなはぬ事ぞ、深く身にしみては覚ゆるわざなれば、すべてうれしきを詠める歌には、心深きは少くて、心にかなはぬすぢを、悲しみ憂へたるに、哀れなるは多きぞかし。然りとて、わびしく悲しきを、みやびたりとてねがはむは、人のまことの情ならめや。又同じ法師の、人はよそぢに足らで死なむこそ、めやすかるべけれと云へるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にも詠み、常にも云ふすぢにて、命長からん事をねがふをば、心ぎたなき事とし、早く死ぬるを、めやすき事に云ひ、此世をいとひ捨つるを、いさぎよき事とするは、これみな仏の道にへつらへるものにて、多くはいつはりなり。言にこそさも云へ、心のうちには、誰れかはさは思はむ。たとひまれまれには、まことに然か思ふ人の有らんも、もとよりの真心には有らず、仏の教へにまどへるなり。人のまごころは、いかに佗びしき身も、早く死なばやとは思はず、命をしまぬ者は無し。されば万葉などの頃までの歌には、ただ長くいきたらん事をこそねがひたれ、中頃よりこなたの歌とは、その心うらうへなり。
書き下し
人の心は、うれしき事は、さしも深くは覚えぬものにて、ただ心にかなわぬ事ぞ、深く身にしみては覚ゆるわざなれば、すべてうれしきを詠める歌には、心深きは少なくて、心にかなわぬすじを、悲しみ憂えたるに、哀れなるは多きぞかし。然りとて、わびしく悲しきを、みやびたりとてねがわむは、人のまことの情ならめや。また同じ法師の、人はよそじに足らで死なむこそ、めやすかるべけれと云えるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にも詠み、常にも云うすじにて、命長からん事をねがうをば、心ぎたなき事とし、早く死ぬるを、めやすき事に云い、この世をいとい捨つるを、いさぎよき事とするは、これみな仏の道にへつらえるものにて、多くはいつわりなり。言にこそさも云え、心のうちには、誰かはさは思わむ。たとい、まれまれには、まことに然か思う人の有らんも、もとよりの真心には有らず、仏の教えにまどえるなり。人のまごころは、いかにわびしき身も、早く死なばやとは思わず、命惜しまぬ者は無し。されば万葉などの頃までの歌には、ただ長く生きたらん事をこそねがいたれ、中頃よりこなたの歌とは、その心うらうえなり。
現代語訳
人の心は、嬉しい事はそれほど深くは感じないもので、ただ心にかなわない事こそが、深く身にしみて感じられるものなので、総じて嬉しさを詠んだ歌には心の深いものは少なく、心にかなわない筋を悲しみ憂えた歌に、しみじみとしたものが多いのである。そうだからといって、わびしく悲しいことを雅だといって願うのは、人の本当の情であろうか。また同じ法師が「人は四十に足らずに死ぬのこそ見苦しくなくてよい」と言っていることなどは、中古以来の人が、みな歌にも詠み、ふだんにも言う筋であって、命の長いことを願うのを心汚いこととし、早く死ぬのを見苦しくないことと言い、この世を厭い捨てるのを潔いこととするのは、これはみな仏の道にへつらったものであって、多くは偽りである。言葉ではそう言っても、心の中では誰がそう思うだろうか。たとえごくまれに本当にそう思う人がいるとしても、それはもとからの真心ではなく、仏の教えに惑わされたのである。人の真心は、どんなにわびしい身であっても、早く死にたいとは思わず、命を惜しまない者はいない。だから万葉集などの頃までの歌には、ただ長く生きることをこそ願っていたのであって、中古以来の歌とは、その心が正反対である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひけんこう法師がつれづれ草に、花は盛りに、月はくまなきをのみ見る物かはとか云えるは、いかにぞや。古えの歌どもに、花はさかりなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには、風をかこち、月の夜は、雲をいとい、あるは待ち惜しむ心づくしを詠めるぞ多くて、心深きも、ことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのどかに見まほしく、月はくまなからむ事を思う心のせちなるからこそ、さもえあらぬを歎きたるなれ、いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲をねがいたるは有らん。さるをかの法師が云えるごとくなるは、人の心にさかいたる、後の世のさかしら心の、つくり風流にして、まことのみやび心には有らず。かの法師が云える言ども、このたぐい多し。皆同じ事なり。すべてなべての人のねがう心にたがえるを、雅とするは、つくり事ぞ多かりける。恋に、あえるをよろこぶ歌は、心深からで、あわぬをなげく歌のみ多くして、心深きも逢い見む事をねがうからなり。
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『玉勝間』十四の巻 世の人のこざかしき事云ふをよしとする事世の中のこざかしき人は、いわゆる道歌のさまなる俗歌をよみて、さとりがましき事をよく云うものなり。或いは身こそやすけれなど云いて、わが心のさとりにて身のやすきよしを詠むこと、みな儒仏にへつらいたる偽りごとなり。まことには、わが身を安しとして、足る事を知れる者は無きものなり。たとえば人の齢など、七十に及ぶは、まことに稀れなる事なれば、七十までも長らえては、はやく足れりと思うべき事なれども、人みななお足れりとは思わず。末のみじかき事をのみ歎きて、九十までも、百歳までも生きまほしく思うぞ、まことの情なりける。
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひすべて何事も、なべての世の人の真心にさかいて、ことなるを善き事にするは、外国のならいのうつれるにて、心を作り飾れる物と知るべし。
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『玉勝間』四の巻 うはべをつくる世のならひうまき物くわまほしく、よききぬ着まほしく、よき家に住ままほしく、宝得ままほしく、人に尊まれまほしく、命ながからまほしくするは、皆人の真心なり。然るにこれらを皆よからぬ事にし、ねがわざるをいみしき事にして、すべてほしからず、ねがわぬ顔する者の、世に多かるは、例のうるさきいつわりなり。また世に先生などあおがるる物知り人、あるいは上人など尊まるる法師など、月花を見ては、あわれとめづる顔すれども、よき女を見ては、目にもかからぬかおして過ぐるは、まことに然るにや。もし月花をあわれと見る情しあらば、ましてよき女には、などか目の移らざらむ。月花はあわれなり、女の色は目にもとまらずと云わんは、人とあらむ者の心にあらず、いみしきいつわりにこそ有りけれ。しかは有れども、万づにうわべを作りかざるは、なべての世のならいにし有れば、これらは、いつわりとて、さしもとがむべきには有らずなん。
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『玉勝間』八の巻 今の人の歌文ひがこと多き事近き世の人のは、歌も文も、大かたはよろしと見ゆるにも、猶ひが事の多きぞかし。されど其のたがえるふしを、見知れる人はた世に無ければ、唯だかいなでに、此処かしこえんなる詞を使い、よしめきて、詠みなし書き散らしたるをば、誠に善しと見て、人のもてはやし、ほめたつれば、心をやりて、したり顔すめる、いとかたはら痛く、おこがましくさえぞ思わるる。さるにつけては、斯く云うおのが物する事も、猶いかにひが事有らむと、物よく見知れらむ人の心ぞ、恥しかりける。人のひが事の、よく見え分かるるにつけては、我はよくわきまえたれば、ひが事はせずと、思いほこれど、古えの事の心をさとり知るすじは、限り無きわざにし有れば、此外あらじとは、いとなん定め難きわざなりける。
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『玉勝間』四の巻 為兼卿の歌の事それ歌は、心をたねとして、心をたねとせず、心すなおにして、心すなおにせず、ことばを離れて、ことばを離れず、風情をもとめて、風情をもとめず、姿をならいて、姿をならわず、古風をうつして、古風をうつさざる事にてなん侍る、と申すに云々。
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