呻吟語 / 外篇・治道・純王の心有りて、方に純王の政有り
只有不容己之真心,自有不可易之良法。其處之未必當者,必其思之不精者也。其思之不精者,必其心之不切者也。故有純王之心,方有純王之政。
新字:只有不容己之真心,自有不可易之良法。其処之未必当者,必其思之不精者也。其思之不精者,必其心之不切者也。故有純王之心,方有純王之政。
書き下し
只だ己むを容れざるの真心有らば、自ら易ふ可からざるの良法有り。其の之に處すること未だ當たらざる者は、必ず其の之を思ふこと精しからざる者なり。其の之を思ふこと精しからざる者は、必ず其の心の切ならざる者なり。故に純王の心有りて、方に純王の政有り。
現代語訳
ただ止められない本当の心があれば、自ずと変えようのない良い法があります。その処置が当たっていない者は、必ずその考えが精しくない者です。その考えが精しくない者は、必ずその心が切実でない者です。だから純粋な王の心があって、初めて純粋な王の政治があります。
解説
処置の当否を、三段遡ります。処置が当たらないのは考えが精しくないから、考えが精しくないのは心が切実でないから。つまり技術の問題が動機の問題に還元されます。止められない本当の心があれば良い法が自ずと出てくる、というのが出発点です。制度論を動機論に接続する構えで、前に出てきた、心が真であれば方法は出てくるという段と同じ立場です。心を最上流に置いた一段になっています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
真心遡り動機良法切実
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