玉勝間 / 五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ
此ほたるのともす火にや云云、ここは眞名本に、此螢のともしびにや似むと思ひて、消ちなんとすとて、男詠める、と有るぞよろしき。但し上に、車なりける人と有れば、下なる男と云ふ事は、無くてあらまほし。もし又、ともし火にや似んと思へるを、女の心とせば、思ひければ、などこそ有ルべけれ、思ひてと云ひては、かなはず。「出ていなば誰れか別れの云云、此歌、上と下と緣無し。又はしの詞にもいとうとし。眞名本に、初ノ句、いとひてはと有るも聞えず。又眞名本に、此歌の次に、女返爾付而、「いづくまでおくりは云云、此歌もをさなし。なほおもひてこそ、聞えず。眞字本に、なほざりにとあるにて聞ゆ。今の翁まさにしなんやは、爲なんやにて然るすける物思ひをば爲なんやの意なり。死なんやにては、からうして息出たり、と云ふにかなはず。「いでていなばかぎりなるべし云云、古への人も、かばかり拙き歌詠みけるにや。これは上に云ふべかりけるを、おとしたるなり。なほはたえ在らざりける中なりければ、此詞あまりて聞ゆ。眞名本には、さりとてはた、いかでは、え在らざりける中なりければと有。心にとどめてよますはらに云云、聞えぬ事なり、眞字本は聞ゆ。
新字:此ほたるのともす火にや云云、ここは真名本に、此蛍のともしびにや似むと思ひて、消ちなんとすとて、男詠める、と有るぞよろしき。但し上に、車なりける人と有れば、下なる男と云ふ事は、無くてあらまほし。もし又、ともし火にや似んと思へるを、女の心とせば、思ひければ、などこそ有ルべけれ、思ひてと云ひては、かなはず。「出ていなば誰れか別れの云云、此歌、上と下と縁無し。又はしの詞にもいとうとし。真名本に、初ノ句、いとひてはと有るも聞えず。又真名本に、此歌の次に、女返爾付而、「いづくまでおくりは云云、此歌もをさなし。なほおもひてこそ、聞えず。真字本に、なほざりにとあるにて聞ゆ。今の翁まさにしなんやは、為なんやにて然るすける物思ひをば為なんやの意なり。死なんやにては、からうして息出たり、と云ふにかなはず。「いでていなばかぎりなるべし云云、古への人も、かばかり拙き歌詠みけるにや。これは上に云ふべかりけるを、おとしたるなり。なほはたえ在らざりける中なりければ、此詞あまりて聞ゆ。真名本には、さりとてはた、いかでは、え在らざりける中なりければと有。心にとどめてよますはらに云云、聞えぬ事なり、真字本は聞ゆ。
書き下し
この蛍のともす火にや云云、ここは真名本に、この蛍のともしびにや似むと思いて、消ちなんとすとて、男詠める、と有るぞよろしき。但し上に、車なりける人と有れば、下なる男と云う事は、無くてあらまほし。もし又、ともし火にや似んと思えるを、女の心とせば、思いければ、などこそ有るべけれ、思いてと云いては、かなわず。「出でていなば誰か別れの云云、この歌、上と下と縁無し。又はしの詞にもいとうとし。真名本に、初めの句、いといてはと有るも聞えず。又真名本に、この歌の次に、女返に付けて、「いずくまでおくりは云云、この歌もおさなし。なおおもいてこそ、聞えず。真字本に、なおざりにとあるにて聞ゆ。今の翁まさにしなんやは、為なんやにて、然るすける物思いをば為なんやの意なり。死なんやにては、からうじて息出でたり、と云うにかなわず。「いでていなばかぎりなるべし云云、古えの人も、かばかり拙き歌詠みけるにや。これは上に云うべかりけるを、おとしたるなり。なおはたえ在らざりける中なりければ、この詞あまりて聞ゆ。真名本には、さりとてはた、いかでは、え在らざりける中なりければと有り。心にとどめてよますはらに云云、聞えぬ事なり、真字本は聞ゆ。
現代語訳
「この蛍のともす火にや」云々。ここは真名本に「この蛍の灯火にや似むと思いて、消ちなんとすとて、男詠める」とあるのがよい。ただし前に「車なりける人」とあるので、下の「男」という言葉はないほうがよい。もしまた「灯火にや似ん」と思ったのを女の心とするなら、「思いければ」などとあるべきで、「思いて」と言っては合わない。「出でていなば誰か別れの」云々のこの歌は、上の句と下の句につながりがない。また前置きの言葉ともたいそう縁遠い。真名本に初句を「いといては」とあるのも意味が通らない。また真名本には、この歌の次に、女の返しとして「いずくまで送りは」云々とあるが、この歌も幼稚である。「なお思いてこそ」は意味が通らない。真名本に「なおざりに」とあるので意味が通る。「今の翁まさにしなんや」は「為なんや」であって、「そのような好色な物思いをしようか」という意味である。「死なんや」では、「からうじて息出でたり(ようやく息を吹き返した)」というのに合わない。「いでていなばかぎりなるべし」云々。昔の人もこれほど拙い歌を詠んだのだろうか。これは前に言うべきだったのを落としたのである。「なおはた、え在らざりける中なりければ」は、この言葉が余って聞こえる。真名本には「さりとてはた、いかでは、え在らざりける中なりければ」とある。「心にとどめてよますはらに」云々は意味が通らない。真名本では意味が通る。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つうまのはなむけせんとて、人を待ちけるに云云、人をと云うこと、あまれり、真字本には無し。但し上なる、物へいく人にと云う詞の、無き本も有り。それは人を待ちけるにてよろし。又男、「行く水と過ぐるよわいと云云、この歌この条にかなわず、真名本に無きぞ善き。又男女の忍びありきしける云云、この詞も、このくだりにかなわず。人知れぬ物思いけり、この詞いたずらなり。むかし心つきて云云、心つきて、聞えず。真名本に、栄而と有るも心得ず。田からんとては、男の事にて、この男の田からむとてあるを見て、と云う意なり。かくてものいたくやみて云云、この事、上の詞歌に似つかず、別儀なりしが、詞ども落ちて、乱れたるなるべし。昔年ごろ音づれざりける女、昔の下に、男のと云う事無くては、足らず。又よさりこの有りつる云云の上にも、その男、或いはその人など有るべきことなり。「これやこの我に云云、この歌、おうみをと云うこと、聞えず。近江に云い掛けたりとせんも、しいごとなり。もし然らば、上に近江の国の事無くては、ととのわず。又下の句も、これやこのと云えるにかなわず。昔よごころつける女云云、これは、女にてはかなわず、真名本に、嫗女と有るぞよろしき。仮字の乱れたるより、斯かるまぎれもおのずからなり。
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ初めのくだり、男のきたりける云云、男の、のの文字ひがことなり。真名本に無きぞ宜しき。男のとては、云云して歌を書きてやる事、女のしわざになるなり。月やあらぬちょう歌の条、ほいにはあらで、この詞聞えず。真字本に、穂にはと有るも、心ゆかず。穂には出でずなどこそ云え、ほにはあらでなどは、聞きつかぬ心地す、猶もじの誤りなどにや。うつの山のところ、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかえではしげりて云云、かえではのはは、てにおはなり。上の道はのはと重ねて、こうように云う、一つの格なり。「秋はきぬ紅葉はやどに降りしきぬ道ふみ分けてとう人は無し、など、三つも重ねて云える、この類多し。真名本に葉と書けるによりて、然か心得ては、いとつたなき文になるなり。「君がためたおれる枝は云云。この歌は、君にわが心ざしの深きにかないて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染めたり、と云う意なるべし。注どもに、秋と云う言になずみて、女の心のうつろう事に心得たるはいかが。さてはかえしの歌めずらしげ無し。又女の心を疑うべきよしも、上の詞に見えず。「いでていなば心かろしと云云。
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つその故は、待つにと云うまでは、ただ一度のさまを云える文なるに、たびたび過ぎと続けて云いては、俄なり。さればこは、よろこびて待つに来ず、さること度々なりければ、などように有るべき所なり。むかし男かたいなかに住みけり。真名本に、昔男女と有るぞ善き。男とのみにては、次なる男と云う言も余り、また待ちわびたりけるにと云うも、上に女と云う言無くては、聞えず。「梓弓真弓つき弓云云、この歌、初めの二句、いかなる意にか、さらに聞えず。又真名本に、神言忠令見と書けるは、もとより借字ながら、いとつたなき書きざまなり。下の句は、昔わがうるわしみせしがごとく、今の男に、うるわしみせよと云えるなり。「見るめなきわが身を云云、この歌のこと、古今集の遠鏡に云えり。さてこの歌をここに出だせるは、下の句、はしの詞にかなわず聞ゆ。又色このみなる女と云うことも、ここに有るべき詞に有らず。これらによりて思うに、これは、「秋の野にちょう歌の次に、多く詞落ちて、もと上とは別条にぞ有りけむ。え得ずなりにける事、わびたりける人の云云、真名本には、わびを慙と書けり、共にかなえりとも聞えず。
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ歌によりて思うに、とぶらいたりける人の、など有るべきにや、「おもおえず袖に云云、袖に湊のと云うこと、聞えず。又真名本に、袖に浪渡のと書けるは、下の句とむげにかけあわず、ひが事なり。浪渡は、異所にも斯く書きて涙なり。されば思うに、こは袖の湊のなるべし。たとい袖の湊と云う名所は無くとも、涙の深き事を、下の句の縁に、然か云いつべき物なり、のをにに誤れるなるべし。女の手あらうところに云云、ここの文きこえず。真名本にて聞えたり。但しかの本も、泣く影のうつりけるを見てちょう下に、女と云う言無くてはいかが。たち聞きても、かの本に聞きつけてと有るぞ善き。「水口に我や云云、この歌の初めの二句の注ども、いずれもいささかたがえり。こはさだめてわが泣く影も、ともに見えやすらんと云えるなり。こうように見ざれば、下の句にかなわず。わが影の見ゆるにや有らむと云うとは異なり。「ならわねば云云、この歌、詞たらわで、聞えぬ歌なり。とかくなまめくあいだに、かのいたる蛍を云云、かくては、なまめくは、いたるには有らで、異人と聞えていかが。とかくなまめきつつ、蛍をとりて、などこそ有るべけれ。
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つかえし「下ひもの云云、又かえし「恋しとは云云、この又のかえし、かなえりとも聞えず。真名本には、この二首は、上とは別条にて、「恋しとは云云、かえし「下ひもの云云と有り、よろし。今はさること似げ無く云云、誰とも無くて、斯く云えること聞えず。真名本には、なま翁の今は云云と有り、よろし。されど歌の上に、中将なりける翁と有るは悪ろし、かの翁とこそ云うべけれ。又は上を、中将なりける翁今はさること云云と云いて、歌の所には、何とも云わでも有りなん。大鷹のたかがいを、真名本に、大方之鷹飼と有るは、ひがことなり。西宮記にも、鷹飼王卿、大鷹飼者、地摺の猟衣、綺の袴、玉帯を著く、鷂飼者云云と有る、ここによくかなえるをや。昔みかど住吉に云云、この条すべて詞足らず。他条の例に似ず。「我見てもの歌も、誰が歌とも、わきまえがたく、大神の現形も俄なり。他条の例にならいて云わば、昔男、みかどの住吉に行幸し給いける、御供につかうまつりて詠める、「我見ても云云、と詠めりければ、大神云云、などこそ有るべけれ。「むつまじと云云の歌は、何事ぞや。二の句を、君は知らずやとすれば、大かた聞ゆるようには有れど、猶いとつたなし。
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つさてそれを、わが本意なりと云えるなり。「今までに云云、とてやみにけりと云う詞、上に心ざしはたさむとや思いけむ、と云えるに、かなえりとも聞えず。このくだり、真字本はよく聞えたり。昔男ありけり、いかが有りけむ、その男云云は、真名本に、昔男女云云と有り、さらでは足らわず。さてやがて後ついに、この所詞重なりて、くだくだし。真名本には、さてついにと有り。さてここは、作者の語なれば、きょうまでと云えるもいかがなり。然れば、さて後ついによくてやあらん云云、とこそ有るべけれ。むくつけきことと云うより、おわぬものにや有らんと云うまでは、のろいごとを評したる語なり。むくつけきことは、むくつけき事よと云う意なり。かくて今こそは見めと云う一句は、さかでうちたる男の、のろいていえる言なるを、評する語の中へ引き出でて云えるなり。よき酒ありと聞きて、この下に詞落ちたるなり。さらでは、下にその日はと云えるも、より所無し。試みにその落ちたる詞をおぎなわば、よきさけ有りと聞きて、うえにありける人々、飲まんとて来けり。左中弁云云、などや有りけむ。あるじのはらからなるの下に、男など有らまほし。なくなりにけるを、真名本に、なくなりたる女をと有り、よろし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る