玉勝間 / 五の巻 えびす三郎
源平盛衰記に、成經、康賴、俊寛の、鬼界が島に流されてある事を云へる段に、かの島に鷺岳と云ふ山有て、その山に、夷三郞殿と申す神を、いはひまつりて、岩殿と名づくと云へり。神祇官年中行事にも、戎三郞殿と有り。此神のこと、いといぶかし。神に殿と申すも、めづらしき稱なり。
新字:源平盛衰記に、成経、康頼、俊寛の、鬼界が島に流されてある事を云へる段に、かの島に鷺岳と云ふ山有て、その山に、夷三郎殿と申す神を、いはひまつりて、岩殿と名づくと云へり。神祇官年中行事にも、戎三郎殿と有り。此神のこと、いといぶかし。神に殿と申すも、めづらしき称なり。
書き下し
源平盛衰記に、成経、康頼、俊寛の、鬼界が島に流されてある事を云える段に、かの島に鷺岳と云う山有りて、その山に、夷三郎殿と申す神を、いわいまつりて、岩殿と名づくと云えり。神祇官年中行事にも、戎三郎殿と有り。この神のこと、いといぶかし。神に殿と申すも、めずらしき称なり。
現代語訳
『源平盛衰記』に、藤原成経・平康頼・俊寛が鬼界が島に流されていることを語る段で、「その島に鷺岳という山があって、その山に夷三郎殿と申す神を祀って、岩殿と名づけている」と言っている。『神祇官年中行事』にも「戎三郎殿」とある。この神のことはたいへん不審である。神に「殿」と申すのも、珍しい呼び方である。
解説
えびす神の古い呼び名「夷三郎殿」に目をとめた段である。『源平盛衰記』は、鹿ケ谷の陰謀で鬼界が島に流された成経・康頼・俊寛の話の中で、島の鷺岳に夷三郎殿という神が祀られ、岩殿と呼ばれていたと記す。宣長は、神祇官の年中行事の書にも戎三郎殿の名が見えることを確かめたうえで、この神の素性がよくわからないと率直に述べる。さらに、神を「殿」と呼ぶのも珍しいと指摘する。えびすは後に商売繁盛の神として広く信仰されるが、その起こりには漂着神や蛭子神との結びつきなど諸説があり、今もはっきりしない。宣長は古事記の神々の研究者として、記紀に見えない神には慎重だった。わからないことを「いぶかし」と正直に書き残す姿勢に、学者としての誠実さがある。
関連する章句
-
『玉勝間』十一の巻 田舎の神社に高き位階を授らるる事同記に云わく、同五年九月廿九日、この日贈位宣下行わるるなり。(西宮左大臣高明公)備前国において勧請し奉る神と云云。件の社この間託宣有り、某村人に属きて、祟りを成さしめ給い候間、山科中将顕言朝臣に就きて、地下より申し請うる仁有り。奏聞を経て、勅許有りてこれを行わる、従一位を贈らるる者なり。夜に入りてその儀有り云云。これは贈位の例とはおぼえず。ただ神に位を授け給えるにこそ有れ。またすべての事のさま、古に違いて、近き世のさまなり。
-
『玉勝間』六の巻 さぬきの国の山の谷なるあやしきゑり物大和国つぼ坂寺のおくなる山に、五百羅漢のかたとて、石に数百の人のかたを彫りたるあり。或る人の云えるは、これを俗に羅漢としも云うは、あらぬことなり。よく見れば、みな上つ代の人の形なり、神の御しわざと見えたりと云えり。おのれ未だ見ざれども、まことにさぞ有らむとぞ覚ゆる。すべて古き神の御像、またさらぬをも、世にはみなおしなべて、仏のかたと思える多し。また物の形など石にえりたるが、あやしく何ともわきまえ難きなど、世に多かるを見れば、上つ代には、くさぐさ石に物える事の、多かりしなり。神代のしわざをも、今まのあたり見るべき物は、石のみぞ有りける。讃岐の国に、その所の名聞きつるを、忘れたり。いと広き谷ひと谷に、有るかぎりの岩、一つもおちず、大きなるにも小さきにも、ことごとく仏のかたを彫りたる所ありて、その数かぞえ尽くすべからずとぞ。或る人そのさまをよく見て、あまりあやしさに、石工にはからせたるに、大かた日毎に数百人の石つくりをして、三十年ばかりの月日を経て、えらしめずは、かくまでは成し得じ。
-
『玉勝間』七の巻 神社の祭る神を知らまほしくする事古き神社どもにはいかなる神を祭れるにか、知られぬぞ多かる。神名帳にも、すべてまつれる神の御名は、しるされず、ただその社号のみを挙げられたり。出雲風土記の、神社をしるせるようも、同じ事なり。社号すなわちその神の御名なれば、さも有るべき事にて、古はさしも祭る神をば、しいては知らでも有りけむ。然るを後の世には、必ず祭る神を知らでは、有るまじき事のごと心得て、知られぬをも、しいて知らむとするから、万ずにもとめて、或いは社号につきて、神代のふみに、いささかも似よれる神の名あれば、おしあてにその神と定めたるたぐい多ければ、その社に伝えたる説も、信じがたきぞ多かる。そもそも神は、八百万の神など申して、天にも地にも、その数限り無くおわします事なれば、天の下の社々には、その中のいずれの神を祭れるも、知るべからぬぞ多かるべき。神代紀などに出でたる神は、その千万の中の一つにもたらざんめるを、必ずその中にて、その神と定めむとするは、八百万の神の御名は、神代紀に、ことごとく出でたりと思うにや。古書に御名の出でざる神の多かる事を、思いわきまえざるは、いかにぞや。
-
『玉勝間』五の巻 三郎現報霊異記に、文の忌寸氏の人に字を上田三郎と曰う、と云える事あり。聖武天皇の御世のことなり。その頃より、三郎など云う名有りしにこそ。字と云えるは、今の世の俗名のごとし。
-
『玉勝間』六の巻 岩くらうつ同じ百首に榊兼昌、「いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊たてたり。この下句、神代の巻に、神籬磐境と有る物のさまと聞こゆ。いわくらうつとは、磐をもて座をかまうる意なるべし。
-
『玉勝間』十三の巻 文治元年四月神鏡神璽京にかへり入らせ給ふ事文治元年四月廿五日、神鏡神璽入御あり。上卿は権中納言経房、参議は宰相の中将泰通、弁左少弁兼忠、近衛には左中将公時の朝臣、右中将範能の朝臣なり、両将ともに、壺胡籙を帯せり。職事蔵人左衛門権佐親雅ぞ、供奉しける。四塚より下馬して、各歩行す。先ず頭の中将通資朝臣参向して、行事す。内侍所、内蔵寮新造の唐櫃に納め奉る。大夫尉義経、郎等三百騎を相具して、前行す。御後、又百騎候う。朱雀を北へ行き、六条を東へ行き、大宮を北へ行き、待賢門に入り、朝所に着御ありけり。蔵人左衛門尉橘〓季、かねてこの所に候いけり。神璽は、海上に浮かみけるを、常陸国の住人片岡の太郎経春が、取り上げ奉りけるとぞ聞こえし。同廿七日、内侍所神聖、官の庁より温明殿へ渡し奉らる。上卿参議弁次将、みなもとの供奉の人なりけり。三箇日臨時の御神楽おこなわれけりと、この事源平盛衰記に見えたり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る