玉勝間 / 五の巻 三郎
現報靈異記に、文ノ忌寸氏の人に字曰上田三郞、と云へる事あり。聖武天皇の御世のことなり。其頃より、三郞など云ふ名有しにこそ。字と云へるは、今の世の俗名のごとし。
新字:現報霊異記に、文ノ忌寸氏の人に字曰上田三郎、と云へる事あり。聖武天皇の御世のことなり。其頃より、三郎など云ふ名有しにこそ。字と云へるは、今の世の俗名のごとし。
書き下し
現報霊異記に、文の忌寸氏の人に字を上田三郎と曰う、と云える事あり。聖武天皇の御世のことなり。その頃より、三郎など云う名有りしにこそ。字と云えるは、今の世の俗名のごとし。
現代語訳
『日本現報善悪霊異記』に、「文忌寸(ふみのいみき)氏の人で、字(あざな)を上田三郎という」とあることがある。聖武天皇の御代のことである。そのころから三郎などという名があったのであろう。「字」と言っているのは、今の世の通り名のようなものである。
解説
「三郎」という通り名がいつからあるかを、『日本霊異記』から確かめた段である。霊異記は平安初期に薬師寺の僧景戒がまとめた仏教説話集で、奈良時代の庶民の暮らしを伝える。そこに聖武天皇の時代の話として、文忌寸という氏の人が、字を上田三郎と呼ばれていたとある。宣長は、生まれた順を示す「三郎」のような呼び名が奈良時代にはもうあったと読み取る。そして「字」とは、正式の名とは別に日常で呼ぶ名、つまり宣長の時代の俗名にあたると説明する。宣長自身も小津栄貞から本居宣長へと名を改め、号を鈴屋と称した。名の使い分けは身近な関心事だった。今の呼び名の習いが千年以上前にさかのぼることを、説話の一行から掘り起こしている。
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 あざ名と云ふ物の事あざ名と云うもの、かの文琳、菅三、平仲などのたぐいのみにもあらず、古より正しき名の外に呼ぶ名を、字と云える事多し。中むかしには、今のいわゆる俗名をも、字と云える事あり。その外にも田地の字、何の字くれの字など云うも、皆正しく定まれる名としも無くて、呼びならえるを云えり。いずれも漢国人の字とはことことなり。そが中に、今の俗名を云えるは、漢人の字と、こころばえ似たり。
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『玉勝間』十二の巻 童名に某丸と云ふ事同じ記に、寛仁三年二月十六日、千寿丸、家の侍所に於て元服を加えしむ、(名号は為時)と有り。童名になにがし丸と云う事、そのかみも有りしなり。
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『玉勝間』八の巻 男の名にも某子と云へる事中昔よりこなた、女の名に某子と云う事、なべての例なり、古えにもおりおり見えたり。さて古えは、男の名にも、子と云える多し。まず神武天皇の御世に、石押分之子、贄持之子と云う有り。古事記仁徳天皇の御段に、丸邇臣口子、書紀応神の御巻に、壱岐の直真根子、仁徳の御巻に、茨田の連衫子、又佐伯の直阿俄能胡、履中の御巻に、阿曇の連浜子、雄略の御巻に、佐伯部の仲子、又難波の吉士赤目子、又倭子の連、又水の江の浦嶋の子、継体の御巻に、筑紫の君葛子、又目頬子、安閑の御巻に、稚子の直、欽明の御巻に、中臣の連鎌子、又葛城の山田の直瑞子、敏達御巻に、吉士金子、又大伴の糠手子の連、又物部の贄子の連、推古御巻に、小野の臣妹子など見えたり。さて右の名どもの中に、石押分之子、贄持之子、古事記書紀ともに、之の字あり。仁徳の御巻の、衫子の訓注に、莒呂母能古と見え、また阿俄能胡、又浦嶋の子、又中臣の系図に、鎌足公の祖父の名、方子とも、加多能子とも書る、是等によらば、すべて皆某之子と、之をそえて訓むべきかと思わるれど、又継体の御巻なる目頬子を、歌に梅豆羅古と有れば、なべて之と云うべきにも有らず。さて又推古の御巻に、阿倍の臣鳥と云う人を、鳥子とも有り。
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